COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.1
旅するアーティスト、小夜の中山を越えて

アーツカウンシルしずおかは、「マイクロ・アート・ワーケーション」というプログラムで、旅するアーティストを応援している。 アーティストが旅をして、いろいろな土地を見て歩くと、アーティストにとっても、これを迎え入れた地域にとっても、いいことがいくつかある。

アーティストは見聞が広がり、表現の幅や深みが増すという利点があるが、地域社会にも二つの大きなメリットがある。

一つは、アーティストは表現することで生きているので、その土地の良さを独特の視点で発見し、様々な表現手法を駆使して、地域社会の価値を広く世間に知らしめてくれる。観光大使のアート版のような役割を果たす。もう一つ大きいのは、アーティストが滞在してその地に刺激をもたらすことで、明らかに地域社会の創造性が高まるという点だ。

micro ART WARK-ACTION マイクロ・アート・ワーケーション

実はアーティストが旅をするのは現代に限らず、昔からアーティストは旅するものだった。一番有名なのは、『奥の細道』で知られる松尾芭蕉だろう。芭蕉は東北だけではなく東海道を何度も旅しており、現在の静岡市の鞠子宿では、

  梅若菜 丸子の宿の とろろ汁

という句を詠んでいる。

その芭蕉が心から尊敬し心酔していたのが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人、西行だった。 西行は、69歳という当時では大変な高齢になっていたにもかかわらず、東海道の難所として知られる峠道「小夜の中山」(現掛川市)を越えている。その時に歌を詠んだ。

  年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山

「年を取ってから、また再び小夜の中山を越えることになるとは考えもしなかったことだ。命があったからこそなのだなあ」というのである。

小夜の中山公園(掛川市)に建つ、西行法師の歌碑
(出典:掛川市観光協会ホームページ)

西行の時代には、アーティストの多くは貴族の歌人だったが、たいていは都にいたままで、全国各地の名所旧跡を訪ねたことにして歌に詠んだが、それではやはり人の心を動かす力が弱かった。その中にあって、西行は例外的に実際に全国各地に足を運んで現場を見て歩いたので、力強い歌が詠めた。

西行は若き日にも、この小夜の中山を越えていて、だから今また越えるといったのだが、こういう事態になったのも、実はアート活動の本質に深くかかわる背景があった。

西行は巨大アートプロジェクトの中で重要な役割を担っていたから、この旅に出た。

そのアートプロジェクトとは、平家による南都焼き討ちで灰燼に帰した奈良の大仏を再建しようというものだった。 重源(ちょうげん)を総合プロデューサー兼総合ディレクターとする「大仏再興」プロジェクトに、西行はファンドレイザーとして、つまりはプロジェクト資金の集金係として加わり、平泉の藤原氏担当として指名された。当時の奥羽地方は金を算出し、これが大仏再建に不可欠だったので、西行の役割に対する期待は大きかった。プロジェクトの成否がほとんど西行の肩にかかっているといっても過言ではなかったのだ。

こうした大役になぜ西行が選ばれたのか。

今日の視点から見れば、西行はたかだか歌詠みにすぎないかもしれないが、当時の歌人、すなわちアーティストには、巨大プロジェクトの一端を担いそれを推進する現実的な力が備わっていた。それもこれも、まさに和歌の持つビジョン喚起力が大きく、しかも現場に赴いて歌を詠んだアーティスト西行は、社会的信用が高かったので、高齢になっても小夜の中山を越えて、奥羽の藤原氏を訪ねて行った。藤原氏説得には西行ほどの人物にして初めて可能だったのだ。

この資金調達の方法は、今日のクラウドファンディングにきわめてよく似ている。もちろんデジタル社会ではないので、web上で呼びかけるという方法がとれない。実際に生身の人間が出向いて行って寄付を呼び掛けるアナログの時代だった。それを西行たちが担当した。さらに、返礼品の仕組みもあったのには驚く。どんな時代でも、対価がなくても寄付してくれる人はいるが、返礼品のような対価が寄付の動機になる場合が多いのは、昔も今と変わりはない。

では、大仏再興のファンドレイジングの返礼品は何だったか。 土木建築事業である。土地の開墾、道路や橋の敷設、池の掘削や河川の改修による治水事業などなど、土木事業を全国各地で起こし、いわば返礼品を先に提供して、地域社会の生産性を向上させた上で、その利益の還元を寄付として求めたのである。

大仏を中心とした大伽藍によって、人々に現生の極楽浄土を見えるようにし、こうした極楽に死後も生まれ変わることができるというビジョンを示したのがアートプロジェクトとしての大仏再建であった。

その結果、今日鎌倉彫刻と呼ばれる東大寺南大門の仁王像を中心とした力強い仏教彫刻群が誕生したが、それを生み出した運慶などの彫刻家、大伽藍を建築した建築家、そして全国各地で土木事業を実施した技術者たちの一大組織化を実現した者こそ、宋に留学して仏教を学んだだけではなく、こうした技術を輸入し、技術者たちをも移住せしめるプロジェクトリーダーとしての重源の力であり、そのチームの一員に西行が位置付けられた。

大仏再現は、巨大アートプロジェクトであった。


旅するアーティストは、旅の間いろいろな旧家に泊まった。様々な表現手法を持っていた彼らを泊める側も歓待した。そうして宿泊代の代わりに、絵とか書とかを残したり、歌舞音曲のできる人はその芸を披露したりした。

アーティストが滞在することによって、まさに日常生活の中に芸術文化が花開く生活が送れたのである。経済価値などには到底還元できない、祝祭芸術の価値である。

おそらく、県下の旧家でアーティストを滞在させたことのない家は1軒もないであろう。 今日では、アーティストインレジデンスと呼んで、何か新しい芸術支援の方法のように考えられているが、そんなことは、西行の時代、芭蕉の時代から、どこにでも普遍的にあったのである。

アーツカウンシルしずおかが目指しているのは、こうした日常生活の中に、芸術文化を取り戻すことである。

西行が小夜の中山を越えて、この歌を詠んだおかげで、小夜の中山は今日まで静岡の名所として伝承されてきた。 アートの力を示す事例である。

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