COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.10

大竹 省二と勝 新太郎

「価値ある無駄」の大切さ

(チーフプログラム・ディレクター 櫛野展正)

写真家・大竹 省二

戦後の写真界をリードした静岡県掛川市(旧・小笠原郡大須賀町)出身の写真家・大竹省二(1920~2015)にとって初となる大規模回顧展が、グランシップ6階展示ギャラリーで開催された。

大竹は、中学生の頃から「アサヒカメラ」などのカメラ雑誌へ写真の投稿を始め、10代後半には有望なアマチュアカメラマンとして注目を集めるようになっていた。

1946年には連合国軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となり、フリーランスの写真家を経て、数々の作家や俳優、芸術家を撮り始め、女性写真や世界の音楽家たちを撮影したポートレートで、一気に人気写真家へと駆け上がった。

95歳で没するまで写真一筋に生きてきた大竹だが、展覧会では、少年期にカメラを手にしてから写真家として大成するまでの半生を時系列で振り返ることができる。

なかでも僕が特に興味を抱いたのは、アマチュアカメラマン時代に戦中戦後の時勢をとらえたスナップ写真だ。

会場のキャプションによると、大竹は「新橋の闇市でフィルムを買い、焼け跡を歩いてはカメラを向ける。疲れ果てて食べるものもお金もない」状況だったようだ。

戦後まもない混乱期のなかで、戦火の残り香を記録しておきたいという止むに止まれぬその表現欲に、僕の心は動かされる。

会場中央へ進むと、展示台には大竹が撮影した昭和を彩った著名人のポートレートが掲載された雑誌が陳列されていたが、それらの紙面を眺めていると、大竹がこだわった各レンズによる撮影情報だけではなく、「極端な白と黒のコントラストをつけて、猫のように豹変する女の感じを視覚的に表現してみたかった」など、彼の被写体に対する深い探究心を伺い知ることができる。

さらに、展示室の最後では、60年代以降に世界各地で撮影された写真が並んでいた。

そのクオリティの高い数々の写真を眺めていると、当時の空気感を切り取った見事なセンスに脱帽してしまう一方で、コロナ禍により気軽に旅をすることができなくなった僕らの現状をひときわ痛切に批評しているようにも感じてしまう。

カメラの進化により、携帯電話ひとつで誰でも簡単にきれいな写真が撮れるようになった現代とは異なり、カメラを手にして写真を撮ることが非常に高価な趣味だった時代から、大竹はひたすらにシャッターを切り続けた。

カメラを愛し、真摯に写真と向き合い続け、「いまここ」にしかいない対象物をレンズに収めてきたわけだ。

展示室の最後には、大竹のこんな言葉が掲げられている。

「人生の答えは遠回りしてやってくる」


俳優・勝 新太郎

同じようなことを言っていたのが、本展で大竹の写真の被写体にもなっていた俳優・勝新太郎(1931〜1997)だ。

彼は「無駄の中に宝がある」という言葉を残した。

一見すると無駄とも思えることのなかにこそ、大切なものは存在している。

例えば、2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大により、「不要不急」という言葉が芸術や文化に向けられ、議論をもたらしたことは記憶に新しいところだ。

「役に立たないもの」と認識されることの多い芸術や文化だが、いまも続く自粛生活の中で文学や音楽、映画などが人生に彩りや喜び、あるいは癒しをもたらしてくれると実感した人は多いのではないだろうか。

どんなに辛いことがあっても、僕らはそうしたものに触れたとき、自然と明日への英気を養うことができる。

そもそも、「文化」を意味する『culture(カルチャー)』は、ラテン語の『colere(カレル)』が語源になっており、英語圏では「こころを耕す」という意味で使われるようになった。

効率ばかりが重視される世の中だが、芸術や文化のような一見すると無駄なものの中にこそ、人生を豊かにするヒントは詰まっている。

言い換えれば、無駄なものとは、あくまで「これまでの価値観」のもとで無駄とされてきただけに過ぎないのものだろう。

そして、そうした「価値ある無駄」を見つけるお手伝いをするのが、僕らの役割のひとつなのだ。


<おまけ>

櫛野展正「価値ある無駄」@TEDxHokkaidoU (2018)

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