COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.58

地域社会と芸術の交点を考えるための、3つのポイント

小澤慶介(一般社団法人アートト代表理事/アーカスプロジェクトディレクター)

2023年度、僕は、アーツカウンシルしずおかからの依頼で「アートプロジェクトのつくり方『きかくの場』」というプログラムの講師をした。

これは、県内各地に住む人々が自らの関心に企画の種を見つけ、それを企画書にするというものだ。

日々考えていることを整理して客観的に把握しつつ、協力者や出資者へと伝えるツールづくりといってもいいだろう。

20名の参加者からは、あるテーマでまちを読み直して文化的な資源や魅力を発見するといった公益性の高いものから、個人的な関心を追求して公開する先鋭的なものまで、ユニークな企画が上がってきた。

そこで、このコラムでは、その先にある企画の実践の一つの方向性を示すものとして、筆者がディレクターとして関わった現代アートの芸術祭「富士の山ビエンナーレ2016 フジヤマ・タイムマシン」において試みたことをお伝えしようと思う。

この芸術祭は、2014年に市民有志によってはじまり、富士市や富士宮市、静岡市に点在する空き家や史跡などを会場に行われ、僕は2016年と2018年の2回、芸術祭の企画立案と内容を監修するディレクターを担当した。

地域社会の成り立ちを知る

まず、取り組んだことは、芸術祭が開かれる地域の人々に土地の来歴を聞くことであった。

それは、そのふだんはあまり意識されることのない地理や過去に起こった出来事、またそれらをめぐる物語や記憶を現代アートの作品をとおして表に出すための第一歩であった。

富士山と駿河湾に挟まれたこの地域には、とにかくさまざまな時代の跡が刻まれている。

車で一日走ってみると、富士山の噴火によって流れ出た溶岩が固まった川辺や戦国時代の合戦の場、東海道五十三次の宿場町、明治時代の開国とともに興った製紙業の工場群、そして太平洋戦争を経て高度経済成長へと至る過程で生み出された負の痕跡などに巡り合う。

その背後には、市井の人々の思いや心の傷などが形をなさずに渦巻いていることも知った。

そうして得られたことをアーティストたちと分かち合い、この地域の特異性を表しながら、同時にこの国の成り立ちをも仄めかす芸術表現を探った。

たとえば、井田大介は、彼の郷里の鳥取県日吉津村と富士市の産業と地勢が似ていることに着目した。

いずれも、大きな山から流れ落ちる水によって製紙産業で栄えたものの、時代の移り変わりとともに往時の勢いは失せつつある。

手作りの三輪車を作り、富士市の製紙工場で余った大きな紙のロールを後輪として取り付け、紙を後ろに投げ出し車輪を減らしながら日吉津村を漕いでゆくパフォーマンスを映像で表した。

井田大介《paper wheels》2016年

地域の内と外が出会う場

次に、この地域で活動するアーティストと国内外で活動するアーティストの出会いと学び合いである。

地元のアーティストは、外からやってくるアーティストに地域の言葉や人、生活、来歴、地理などを紹介し、反対に、アーティストとして活動する上での技術や知識、また作品制作における思考や実験などについての知恵を得る。

地元のアーティストはこれを機に、ともすると閉塞しがちな慣れた環境を脱してより広い活動領域へと目を向け、表現やアーティストとしてのキャリアを磨いてゆくことになった。

そして外からやってきたアーティストは、作品を制作するときに抽象的な議論や思考も踏まえつつ、地域のあちらこちらに赴いては具体的な場や空間から作品を構想した。

どちらのアーティストにとっても、慣れたやり方を疑って、自らを客観視するとともに、それまでとは違う制作の道を手探りで進むということであったといえる。

こうした内と外のアーティストの知と経験が混ざり合うプラットフォームは、ともにご飯を食べたりお酒を飲んだりして熟してゆくものである。

この試みがうまく行ったためか、芸術祭の会期が終わってもそれは消えることなく、アーティストたちは今でも互いの展覧会に足を運びあったり年末年始に東京で集まったりして関係を更新しつづけている。

富士の山ビエンナーレ2016 ポスター 作家サイン入り

芸術祭と作品の質

そして、最後に芸術祭とそこに出品される作品の質を高くすることである。

実は、これが一番難しいことかもしれない。

なぜならば、これには具体的な芸術祭や作品の質を見極める際の専門知と経験が必要になってくるからだ。

専門知というのは、美術史のみならず、地域社会の同時代のあり方や特性などを見極めるために必要な知見である。

さらにまた具体的な展示を構想したり実践したりする際の知識も必要になってくる。

想定される展示空間に対する作品の大きさ、素材、展示台、照明などをどうするかによって、作品は存在感を増して鑑賞者に迫ることにもなるし、反対に展示空間に負けてしまい見栄えを失うことにもなる。

現代アートや視覚文化に関連する本を読んだり、他の芸術祭や国際展に足を運んだりするといった実地での学びを重ねることで、「質」を判断する力が培われてゆく。

なぜ、芸術祭や作品の質が大切かというと、もしそれに気を配らなければ、どこでも見られるようなありきたりの表現ばかりが溢れる場になってしまうし、それを芸術とみなしてしまうと芸術祭を支える人たちや見にやってくる人の感性が鈍ってしまうからだ。

芸術は、美的なものも必要とされる。

美的、それは、感性に深く関わるもので、ふだん見ているものや考えを疑いまだ見ぬ新しいものを捉えようとする力といってもいい。

芸術を趣味の範囲で終わらせるのではなく、人々の感性を刺激すること。

富士の山ビエンナーレでは、造形力も去ることながらこの地域の隠れた物語を照らし、見にきた人たちの感性を揺さぶる作品が出そろった。

岩崎貴宏は、積んだタオルとたらいを富士山と駿河湾に見立て、タオルから引っ張り出した糸をボンドで固めながらその地に建っている鉄塔を作った。

これが、見る人に、この地の新幹線やアルミの精錬工場などで大量に必要とされる電力や富士川を境に別れる電気の周波数に思いを至らせ、それぞれの記憶を語らせることとなった。

岩崎貴宏《アウト・オブ・ディスオーダー(山とタライ)》2016年

こうして見てくると、上に挙げた点はいずれも分けて考えることが難しいことに気づく。

土地の読み込みやアーティストたちの交流が十分になされることは、作品や芸術祭の質に関わっている。

芸術祭は、出資者や目的、社会基盤、人口、地理的な条件、また地域社会の課題によってさまざまに現れるが、これらの方向性を意識しながら予算を適切に配分して実行するとある特異性が生まれ、地域社会の内にも外にも訴えることのできる芸術祭になる。

アーツカウンシルしずおかが蒔いた地域社会を見つめ直す種があちらこちらで芽を出し花開き、身を結ぶことを願ってやまない。

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