COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.9

古民家の創造性

~高林兵衛邸を訪問して~

(アーツカウンシル長 加藤種男)

古民家と聞いて行ったが、入り口がどこか分からないほどの森に囲まれている。

浜松の郊外とはいえ周囲には人家もあるのに、ここだけは別世界である。

長屋門の奥を回って玄関を入り客間に通されると、いきなり「積志」の大書が掛けられているが、そこに「家達」と署名がある。

もしかして徳川家達?

――まさに、慶喜蟄居後の徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)の書である。

高林家は元今川義元の家臣だったが、桶狭間で義元が討ち死にしたため浪人して後、家康の浜松入城後その家臣となり、家康から土地を拝領して神主兼庄屋となったものという。

だから徳川家とは縁が深いのだ。 藩主にお目見えを許された独礼庄屋という破格の家柄だった。

江戸時代以来伝承してきた多数の文書は浜松市に寄贈され『高林家文庫』として浜松市図書館が保管している。

浜松と遠州の歴史を紐解くうえで欠くことができない。  

十三代惟兵衛は村人が子弟の学資を積み立てられるようにと積志銀行を起こした起業家だった。

これが家達の書「積志」である。

この銀行名にちなんで村の名も積志村と名付けられたという。 その事業が村の名前になった。

これに象徴的なように、高林家の存在は地域社会の発展に大きな力を発揮した。

今日に続く遠州病院の設立にも高林家が大きな役割を果たしている。


その高林邸を特別に拝見させていただいたのは、竹中工務店に勤めながら昭和初期の近代建築である藤井厚二の聴竹居を発見し重要文化財指定にも尽力された、松隈章さんから紹介されたからだ。

高林家十四代の高林兵衛(ひょうえ)は、静岡県立美術館館長の木下直之さんも紹介しておられるが、民藝運動の発展にも重要な役割を果たしている。

#静岡県#民藝#昭和初期建築のどれをとっても、高林兵衛及び高林家の存在を知らないのではモグリだ、という訳である。

高林家十四代兵衛(ひょうえ)は父・惟兵衛に劣らぬ志の高い人だった。

農村の生活改善活動を受け継ぎつつ、その仕事は驚くほど多岐にわたる。 

銀行他いくつかの企業経営に携わった。

和時計のコレクターにして研究家で、そのコレクションは今日国立科学博物館に常設されている。

茶の湯では三井財閥の益田鈍翁や電力王・耳庵松永安左衛門らと交流し、鈍翁は高林邸を訪れてもいる。

兵衛の雅号「心月」はその鈍翁から贈られたものだという。

再評価著しい渋沢栄一や原三溪にも匹敵する人だったのだ。

さらに圧巻は民藝とのかかわりである。

民衆の工藝が、柳宗悦によって民藝と名付けられ、その民藝が初めて世に広く公開されたのは、昭和三年(1928)上野で開催された大礼記念国産振興東京博覧会における「民藝館」によってであった。

博覧会終了後は大阪の実業家・山本為三郎が購入し大阪三国町のその邸宅内に移築されたので三国荘と呼ばれるようになる。

博覧会の民藝館で展示され、その後三国荘に移された民藝の重要なコレクションは、今日京都のアサヒビール大山崎美術館で展示されている。

この経緯に高林兵衛が深くかかわっていた。

上野の博覧会は工政会の倉橋藤次郎らによって計画され、民藝館出展も倉橋の勧めによる。

民藝館は柳宗悦によって構想されたが、いわばその基本設計を実施設計に落とし込んだのが高林兵衛だった。

今回の訪問では、その高林兵衛手書きの設計図のコピーを拝見した。

設計図だけではなく、その建築に高林兵衛は、出入りの大工・吉田徳十と瓦師・川合梅次郎を浜松から派遣したという。

つまりは、高林兵衛がいたから上野の民藝館が建てられたことになる。

民藝運動の発展に多大な貢献をしていたのだ。  

高林兵衛は浜松の自邸の中にも、この博覧会の民藝館と同様の建物を茅葺で建てる。

それが、今に現存する「田舎家」である。

曲がった太い梁を始めとして古い民家の建材が活用されている。

この建物は、驚くべきことに東京駒場の日本民藝館に先立って、民藝館として公開されたという。

二年間だけではあったが浜松に民藝館が存在したのだ。  

民藝運動は、その後も日本民藝館を中心に展開され、高林家にあった方の民藝館は忘れられて行く。

現在の高林家は兵衛の孫・広中雅子さんとその夫君・広中一さんによって管理されている。


お尋ねした日、床の間には白い花が生けられ白隠の書が掛けられていた。

この床飾りには感服した。 

材料は花以外に新しいものはないけれども、これこそ見事な創造空間である。

我々は普通美術品を美術館で見る。

それは日本民藝館も同じで、民藝でさえも美術館の壁に賭けられた美術品として眺めて満足せざるを得ない。

しかし、住居空間で、花と共に床飾りの全体を眺め、器を使って茶を頂く生活こそが、本来美術品と接するあり様だった。

美術を生活の中に取り戻す以前の、生活そのものが美術でもあった。

古民家活用と芸術と生活の可能性を考える貴重な体験をさせていただいた。

ページの先頭へ