加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
静岡市丸子にある庭園の美しさで知られる吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は、室町時代末期の連歌師宗長(そうちょう)の隠棲の地だといわれる。
市中に遠からぬ地に、深山幽谷を思わせる空間があるのは素晴らしい。
宗長は島田の出身だったので、駿河の国に晩年を送った。
文芸が社会的な影響力をほとんど持ち合わせない現代から見ると、理解しにくいかもしれないが、宗長の時代の連歌師は特に戦国の世にあって、現実社会に対する絶大な力を持っていた。
よく知られた事例は、明智光秀による本能寺の変にかかわるもので、光秀は、その成功を祈願するために連歌の会を催した上で、信長のいる本能寺を襲撃している。
この時の連歌の会は、京都の北西に位置する愛宕山の愛宕神社で開催され、当時有力な連歌師であった里村紹巴らが参加している。
光秀の発句は
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
で、これが天下取りの宣言だと解釈されてもいる。
これに続く脇句は威徳院行祐による 「水上まさる 庭の夏山」 で、あっさりとやり過ごしただけだが第三句目の里村紹巴の句、 「花落つる 池の流を せきとめて」 は、いささか不穏の響きがなくもない。
後に追及されて本人は否定して身の安泰を図っているが、連歌師里村紹巴は、光秀の計画をこの連歌の会で知り、その成功を保証し、実行を促すために、この句を詠んだのではないか。
このように、連歌師は単に文芸アーティストだっただけでなく、政治社会に深くかかわっていた。 逆に言うと、現実の政治や社会にコミットできたのは、連歌という表現の力があればこそのことだった。
だから、宗長だって駿河の地に隠棲するなどといっているが、おとなしく隠居生活を送ったわけがない。
当代きっての文化人である三條西実隆とはもちろん親しかったので、何かというと京の都に出かけて行った。 また一休に参禅したことから、一休ゆかりの寺である山城(現京都府京田辺市)の酬恩庵にも行き来した。
文化の領域にとどまらず、宗長は今川氏の外交顧問として細川、大内、上杉といった武将と交流した。
宗長も柴屋寺を拠点としつつも、また旅するアーティストだった。
そうして、連歌の会を催しては、戦国の世の難しい政治の世界に影響力を発揮するフィクサーでもあった。
そうした現実的な力を持ちえたのも、創造力を駆使するアートプロジェクトである連歌という表現の力を有していたからであった。
室町時代の文芸は、それまでの和歌に代わって、連歌という形式が主流となった。 これは、和歌の五七五という上の句の部分と、七七という下の句の部分を別の人が詠み、複数の人でこれを繰り返して、全体で百句連ねるのが基本だった。
個人の思いを一人孤独に書き連ねる今日の文芸の在り方から見ると、連歌は複数人による協働プロジェクトであり、珍しい形式にも見えるが、まさにアートプロジェクトの先駆であった。
宗長が連歌というアートプロジェクトの重要な位置を占めるようになったのは、「水無瀬三吟百韻」に加わったことが大きかった。
これは、当代きっての連歌師であった宗祇が弟子の肖柏,宗長との三人で詠んだ連歌で、水無瀬(みなせ)神宮に奉納した。
最初の三句を掲げておこう。
雪ながら山本かすむ夕べかな (宗祇)
行く水とほく梅にほふさと (肖柏)
川風に一むら柳春見えて (宗長)
まことに穏やかな早春の風景である。
しかし、時に長享2 (1488) 年のことで、応仁の乱で世の中は荒廃していたはずである。 それをむしろ平安の世とする願いを込めてこの連歌は読まれた。
まさに祝祭芸術としてのアートプロジェクトだった。
アーティスト宗長は、一方で平和を願って穏やかな連歌を詠み、一方で外交交渉により事態の打開を図ろうとした。
アーティストが今以上に現実社会にも力を持ちえたのは、自分の殻だけに閉じこもるのではなく、社会に広く目を向けていたからであった。