COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.12
戦役記念碑と祝祭芸術

小学校の校庭だった広場に巨大なジッパーが埋め込まれ、金具を引っぱると地面が開いて、地中が見える。
覗いてみても見えるのは小石交じりの地中の土の層と、底にできた水たまり。

それだけのことといえば、それだけのことだけれど、それなりに美しくもあり、芝生の校庭が別の世界に見える。
これが、今はやりのアートらしい。

これは、2021年開催された「かけがわ茶エンナーレ」の一コマで、北川純の作品だ。

実は元の小学校は東海道日坂(にっさか)の宿の本陣跡に建てられていた。
つまり、本陣跡地を活用して日坂小学校としたが、それが移転した後、今は何となく公園となり、「まちづくり芸術祭」の会場として活用されたのだ。

日坂は東海道の宿場町として栄えたが、元々は本シリーズ最初の「旅するアーティスト」で取り上げた、小夜の中山の西坂が訛ったものらしい。
「旅するアーティスト」では、アーティストは昔から旅をしたもので、旅の間いろいろな旧家に泊まって、宿泊代として絵とか書とかを残していったと書いた。
そして、「おそらく、県下の旧家でアーティストを滞在させたことのない家は1軒もないであろう」とも書いているが、この芸術祭で日坂の旧家を巡ると、まさにどの家にも、長押に書が掛かっていたり、襖にも絵やら書やらが残されていたりするのを確認できる。
そうした中に、井上明彦により日坂宿を紙と波板で再現した作品などが展示されていて興味深いものだった。


さて、あのジッパーの作品のある元の校庭の片隅には、一段高くなった土壇の植え込みがあり、樹木の中に隠れるように、しかし立派な石碑が立っている。
石碑には「戦役記念碑」と文字が彫り込まれている。

我々にとって最も近い戦争は、第二次世界大戦だが、どうもこの碑はもっと前の「戦役」を記念したものらしい。
石碑の下部には、小さな字なので読みにくいが、明治二十七、八年、明治三十七、八年、さらには大正三、四年のそれぞれ「戦役従軍者」の名簿だとわかる。
つまり、1894、95年の日清戦争、次いで日露戦争、そして第一次世界大戦の従軍者である。
一名だけ陸軍歩兵中尉の名前があるが、士官は他には見当たらず、残りの全員が兵のようである。 歩兵、工兵、砲兵、輜重輸卒などと、それぞれの兵の役割、さらに階級などが書き込まれている。 そして、多くが勲八等と勲功も記載されている。
物流を担当する輜重輸卒には、階級が記されておらず、後年に輜重兵として統一されるまでは、その他の兵からも差別的な扱いを受けていたのかもしれない。

いずれにしても、日坂、あるいはその周辺からも、日清戦争時代から少なからぬ人が徴兵されていたことが知れる。
しかも、同様の状況は各地で広く見られることで、県下にも「戦役記念碑」はいくつもあるだろう。


これもたまたま見つけたものだが、クリエイティブサポートレッツが浜松の駅に近い連尺町に移転する以前、佐鳴湖近くの入野町が本拠地だったころ、近くの若宮八幡宮にも立派な「戦役紀念碑」(こちらの紀念は糸偏)が建っているのを見た。
やはり、日清日ロ以来の戦役である。
忠魂碑はもちろん戦死者の戦役を顕彰し、あわせて鎮魂を願ったものだが、こうした記念碑(あるいは紀念碑)も、戦死者の名簿を含む場合もあるが、必ずしもすべてが戦没者の慰霊碑ではない。
けれども徴兵されたものも、また重要な働き手がいなくなった家族も、その労苦は大きかったであろう。
したがって、戦死者の慰霊とともに、従軍者の活動の顕彰、さらには、その家族の慰撫の意味もあって、こうした碑が建てられたに違いない。
今日では関係者のすべては鬼籍に入っておられるだろうから、記念碑は総じて鎮魂のためとなる。

明治以来の近代化の歴史には、周到に準備を重ねて列強の植民地になるのを回避した優れた側面とは裏腹に、外交努力を放棄して大向こうをうならせることが勇気を示すことだと錯覚して、破局に至る側面が含まれている。

そういう意味では、掛川日坂の芸術祭は期せずして鎮魂を兼ねている。
そもそも祭りの多くは、鎮魂から始まり、鎮魂のためにこそ、いよいよ激しく音を奏で派手に動いたのである。

また、クリエイティブサポートレッツのアルスノヴァの二階で、一日中ドラムをたたきまくったり、ひたすら紙を切り刻んだりしていた子どもたちの行為こそが、浜松は入野町の若宮八幡の石碑に刻まれた人々の鎮魂になっていたのではないだろうか。

町の中心部での活動も重要だが、町はずれの活動も少しは残しておいてほしいと願っている。

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