加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
大河ドラマの進行を先取りしてしまうが、すでに大御所となった家康が駿府に居城した時代のことである。
江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の呼称は回答兼刷還使)が、江戸で将軍秀忠に国書を奉呈した後、駿府で家康に謁見した。
一行は、往路にも駿府を通ったが、家康は、外交使節はまず将軍に会うべきだとして、その時には会わず、帰路に引見して歓待した。
ここにも家康の幕藩体制の確立における統治能力が示されている。
統治体制の永続を図るために、あくまで将軍が幕府の中心にあることを国際的にも示したのである。
朝鮮通信使の一行は、興津の清見寺に宿泊した。
以後、江戸時代を通して何度かの通信使が清見寺を訪れている。
したがって、清見寺には通信使一行が認めた漢詩がいくつも残されている。
知識人たちは、こうした漢詩を求めて行列の宿舎に群がった。
一方、庶民にとって漢詩は難しいが、旗を先頭にした五百人もの通信使の行列は、鼓笛、篳篥(ひちりき)を奏して、まさに異国情緒豊かに道中を練り歩くので、これを祝祭芸術として楽しんだ。
全国のいくつかの地では、その様子を真似て唐子踊りと称して祭りの中に組み込んでもいる。
それほどに熱狂した。
天下統一を成し遂げた家康にとって、幕藩体制の確立が急務だった。
内政はもちろん、外交上にもいくつもの課題を抱えており、その最大のものは、秀吉による朝鮮出兵の戦後処理にあった。
家康は、ウィリアム・アダムズなどの外交顧問をも雇い、スペイン、オランダ、イギリス、明、東南アジア(安南、シャム、カンボジア)などとの外交交渉を続けた。
そうした外交の最大の目的は、莫大な富をもたらす貿易の独占にあったであろう。
同時に、世界史的視点を持っていた家康は、平和外交こそが、国の安全保障の根幹だと理解していた。
朝鮮出兵の戦後処理を誤ると、幕府の外交政策は大きく揺らぎかねず、その影響は貿易の独占、さらには幕藩体制そのものにも及ぶかもしれなかった。
したがって、ことを慎重に進める必要があった。
朝鮮出兵以前に、関東に追いやられていた家康は、北条氏残党の鎮撫を口実に、朝鮮出兵に加わらなかった。
この事実は、秀吉と違って自分こそが朝鮮との平和外交に適任であることを示すうえで有効だった。
双方にいろいろと主張があり、また駆け引きもあり、国書改竄事件までも起こしたが、しかし、こうした厄介な相手との交渉こそが外交というものであり、朝鮮からの外交使節派遣は何とか実現した。
捕虜の帰還などで相当の実績を上げ、これによって明との交易、清の成立以降は清との交易が保証された。
外交こそ、経済の基盤づくりでもあった。
250年に及ぶ戦役のない「徳川の平和」は、内政だけではない、こうした様々な外交の継続によって維持された。
朝鮮関係だけに限っても、日本側は朝鮮国に和館を開き、対馬藩から五百名以上の人が現在の釜山にあたる地に常駐して、貿易にも携わった。
清見寺が通信使の宿舎や休憩所に選ばれたのは、後世の上島鬼貫(おにつら)の句
春風や三保の松原清見寺
にあるように、眼下に海を見下ろす景色が素晴らしかったからである。
また、通信使の残した漢詩にも「大海原の波」を詠じたものがある。
現在の清見寺からはバイパスの向こうに物流センターの倉庫やクレーンが並んで見え、海はわずかに見えるが、松原はさてどこかという風情だ。
けれども、静岡と日本の経済における清水港の役割を考えると、これは必要な基盤整備だった。
静岡県の経済基盤にとって清水港の物流は欠くことのできない重要な要素である。
貿易額は日本の港湾のベストテンにランクされ、マグロを筆頭に漁業の水揚げも多い。
清水港は静岡県の経済、ひいては日本経済にとっても重要拠点である。
この物流の中心地を生かしつつ、清見寺をはじめとする歴史や文化遺産とを結び、新たな創造活動がどのようにすれば可能だろうか。
幸いにして、清水港の来歴から始まって、現在の新たな美術活動をも紹介するフェルケール博物館がある。
この博物館の総合的な活動が、経済と文化を創造的に結びつけた、新たな町づくりの方法を編み出すヒントになる。
清見寺の周辺には、西園寺公望の別荘だった興津坐漁荘があり、地元の方々が管理して公開している。
建物は老朽化し明治村に移築されたが、現在は復元された建物が建っている。
庭は小川治兵衛によるもので、明治村館長を務めた建築史家の鈴木博之によれば、低く刈り込まれた植栽が、海に臨んだ興津の立地にふさわしいものだったはずという。
坐漁荘という名の通り、まさに座して釣り糸を垂れることができたはずだというのである。ここも残念ながら今は海が見えない。
さらに、興津宿の脇本陣であった水口屋の一角は水口屋ギャラリーとなって、水口屋の資料などを展示している。
さすがにここまで歩くと喉が渇く。 ちょうどいい所に茶店がある。
その名も「茶楽」で、和菓子とともに煎茶をいただこう。
これは、静岡が誇るべき喫茶文化のオンリーワンブランド化の事例というべきだろう。
清水港から興津にかけては、現在でもこれだけの文化資源があり、それぞれに創造拠点として機能している。
こうした創造拠点間のネットワークが必要であろう。
すでに祭りや物産展は行われている。 ネットワークの基盤はできている。
フェルケール博物館、興津座漁荘、清見寺、水口屋ギャラリー、茶楽などなどを巡ると、歴史や文化遺産と現在の物流拠点、さらには独自ブランド形成を含めた経済活動を結び付けた、新たな町づくり構想が大きく開花しそうな気がする。
関係者が集って、新たな町づくり、あるいは地域創造を語り合う場にも事欠かないだろう。
それぞれの拠点を巡って毎月どこかで集まりを持つことも考えられるかもしれない。
休憩時間には茶楽から出前をしていただくのもありがたい。
興津の街を歩いていると妄想が膨らむ。
以上上げた拠点に物流センターをも加えて会場とした清水港興津国際芸術祭を「喫茶去」をテーマとして開催できないだろうか、と。