加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
芸術祭が花盛りだ。
大井川鉄道沿線の「無人駅の芸術祭」は島田から川根本町にかけて開催され、国内有数の芸術祭としての評価も高まってきた。
茶畑はまだ新芽の萌芽には早いが、無人駅に菜の花が映える。
これまで県下で開催された芸術祭をざっと眺めただけでも、「かけがわ茶エンナーレ」「原泉アートデイズ!」「富士の山ビエンナーレ」「松崎まちかど花飾り」「しゃぎりフェスティバル」「Cliff Edge Project」「熱海未来音楽祭」「藤枝ノ演劇祭」「オン・ライン・クロスロード」「静岡県障害者芸術祭」「Project Atami」「熱海怪獣映画祭」など枚挙にいとまがない。
音楽、美術、演劇、映画と分野も様々で、名称から内容が推し量れないものもある。
いくつかの芸術祭を見て回ると、いろいろ発見があって楽しい。
こうした芸術祭は、新潟での「大地の芸術祭」が始まった2000年ごろから全国に広がり始め、今や燎原の火のごとく全国津々浦々に見られるようになった。
近年は、どちらかというと規模の小さい芸術祭も花盛りだ。
はじめのころは、その企画運営は若い人が中心だった。
近年は、そこに高齢者が混じる傾向がみられる。
芸術祭の世界も少子高齢社会を反映している。
掛川市原泉地区で開催された原泉アートデイズには、練達の絵を中心にいろいろのオブジェを配置した展示があった。
廃屋のような古い製茶工場が一気に華やいで活気さえ感じられる。
展示品作者の中瀬千恵子さんは1945年生まれで高校の美術教員などもされていたという。
静岡県立美術館で個展を開催され、浜松市美術館に作品が所蔵されてもいる。
道理で本格的なわけだ。
一方で、原泉アートデイズの最も奥まった会場は、バスの終点にある元駄菓子屋の旧田中屋だ。
駄菓子屋は小学校とともに、地元の人々にとっては心の故郷だ。
その駄菓子屋が使われるとあって、なんとなく落ち着かない気持ちになる人がいた。
子どものころの思い出深い田中屋に若い人が集まってくる。
自分も行ってみたいけれど、アートとは全く縁がない。 さてどうするか。
そこで、おじいちゃんは田中屋の前をそわそわ行ったり来たりする。
こうしたお年寄りを見ると他人事とは思えない。
今年、後期高齢者の仲間入りをするはずのぼくは、この「そわそわ」老人が自分の写し鏡に見える。
子どもとアートの接点づくりは成功事例も多いし、障害者の表現活動も多彩な試みが成果を生んでいる。
高齢者とアートの接点づくりはもちろんいくつも試みられてはいるが、まだまだ工夫の余地がありそうだ。
高齢者アートデリバリーという活動をしているアートNPOがある。
高齢者施設にアーティストが出向いて行って、高齢者と一緒にダンスのワークショップなどをして、高齢者の潜在的な表現力を引き出す活動である。歌でも踊りでも絵でも、ほめられるとみな嬉しそうである。
さらに、アーツカウンシルでかかわっている活動に「超老芸術」というのがある。
これは高齢になって才能が突如開花した「超老芸術家」を紹介するもので、このホームページにもすでに20名以上の方が紹介されている。
担当の櫛野展正ディレクターが命名者だが、よくぞこれだけと思うくらい高齢の表現者を次々と発掘してくる。
ほとんどが、年を取ってから突然アート活動に目覚めた方で、驚愕させられたり、抱腹絶倒させられたり、面白くて目が離せない。
なぜ、高齢者の表現活動を推進する必要があるのか。
高齢者が最後まで生きがいを持って生きていくことで、社会がどれほど多様で健全なものになるかしれないからである。
社会的投資という観点からも、高齢者福祉や医療経費の削減もさることながら、超高齢社会で多数を占める人々が活動することで、眠っている消費が生まれるだけではなく、若い世代の新たな社会起業家を生み出すきっかけにもなる。
一人一人の活動は小さくても、数がものをいう。
高齢者の表現活動の推進は、実に有望な投資だといえよう。
さて、これまで紹介したのは、いずれも素晴らしい活動だが、表現の才能が開花しない、あるいは人と一緒に表現したくないコミュニケーションの下手な頑固者の年寄りはどうするのだろうか、と頑固者のぼくはふと考えこむ。
何ができるだろうか。
何があればこうした場に加わるだろうか。
元の駄菓子屋を会場に選んだ着眼点は素晴らしい。
たとえば、あのそわそわおじいさんたちに声をかけて、ここで駄菓子屋座談会を開けないものか。
駄菓子屋の思い出から始まって、昔のことをいろいろと語る。
脈絡もなく、みんなで語り合う。
そうしてその記録を冊子にして知り合いに配り、一人でもいいから面白かったといってもらうと、生きがいになるのだがなあ。
表現ができる高齢者だけでなく、特別の表現などできない高齢者にも可能な表現活動を発明しなくてはならないだろう。
介護民俗学を提唱する六車由実さんの本を読むと、聞き書きを冊子にまとめる話が出てくる。
高齢者がありのままでいて、生きがいになる活動だ。
障害者のアート活動は今では随分と一般に理解され評価されるようになった。
けれども、その多くが既存の芸術観の中で傑出した表現であるところが評価されている。
何も表現できない障害者の表現を発掘することは始まったばかりだ。
一日中ひたすら新聞紙を切り刻む、空き缶に小石を入れて終日これを鳴らす、ただ階段を下りるのに三十分も費やす、これまでは問題行動とされたこうした行為を、「表現未満、」として、あるがままでいいと評価したのがクリエイティブサポートレッツで、障害者アートに大きな波紋を投げかけた。
同様のことが高齢者の表現活動にとっても必要ではないだろうか。
高齢者にもアートを鑑賞してもらう、あるいは、もう少し積極的にワークショップに参加してもらう、こうした活動が高齢者の意欲を掻き立てることもある。
しかし、もっと重要なことは、高齢者自らが表現することである。
けれども高齢者のほとんどは特別の表現手段を持たない。
そのあるがままの姿を、「表現未満、」として積極的に評価する。
ワークショップ型の活動は重要だが、その後に発表の機会が欲しい。
表現活動は人に見てもらって、ほめてもらうことで生きがいにつながる。
大げさにいうと、これが自己表現の社会化である。
けれども、高齢者の自己表現の社会化に若い人が関心を持つかどうか。
こうした仕組みを生み出すことも、結局はぼくたち高齢者自らがしなければならないのかなあ、と堂々巡りのつぶやきになってしまった。