COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.18
白須賀宿 ―浜名湖のその先へ

一転にわかにかき曇り、黒雲の流れる様は、あたかも龍が天翔けるがごとくだ。
龍は浜名湖から登り、白須賀宿を覆い、たちまち大粒の雨が降ってくる。

この情景を文字であらわしたのが、元宿屋にして食堂だった座敷の欄間に掛かっている。

書は右から書かれているが、「龍翔雨起」と読める。
つまり、龍が天翔けり、雨が起こるという。

右から三文字目の「雨」の点々が、もうほとんど雨粒となって落下しようとしている。
絵画化しつつある文字。
その流れるような筆の動きはよく伝わってきて、よどみがない。
左側に「柴石書」とサインがあるので、柴石という号を持つ人の書に違いないが、これがどういう人かを考証する力は残念ながらぼくにはない。

この書が掛かっているのは、浜名湖の西の湖西市にある元旅館「白東館」の座敷である。

湖西市には遠州最西の宿場「白須賀宿」があった。
白東館はその白須賀宿の旅館だった。

旅館には実にいろいろな人が泊まり、その中には画家や書家をはじめとする文人墨客が含まれる。
したがって、宿場の宿には画家や書家の作品が残される。
現にこうした書があるのは、宿代代わりに残していったと言い伝えられている。

現代の我々の多くは昔の書が詠めないので、旧家に入ってもほとんど注目することもないが、この地に宿泊した人は、ある夏の日に実際に龍が立ち昇るように雲が覆い、俄雨が降り出したので、こう書いたのだろう。
意味もなく書かれたのではなく実景を映したのだ。


白須賀宿で江戸の後期に宿屋を営んでいた白東館(旧吾妻屋)を会場に、「浜名湖のその先へ Re-flowering」というアートプロジェクトが昨年開催された。

街歩きやアートワークショップやマルシェを実施したところ、参加者は600人に上ったという。
アートプロジェクトへの潜在的な期待値が大きいことがうかがえる。

「浜名湖のその先へ Re-flowering」(9/23~25開催)
白東館でのアートワークショップの様子

宿場町は、防衛などの観点から通りをわざわざまげて通す。
これを曲尺手(かねんて)と呼ぶが、白須賀宿の街歩きでは、こうした曲尺手や、防火のために植えられた樹木である「火防樹」なども見て回った。
白須賀には槙の木が植えられており、現在も火防樹が見られるのは県下では白須賀宿だけという。
参加した人の感想に、空き家が多い、というのがあったが、どこの地域にも共通した課題だ。

アートプロジェクトは、これからこういう課題にどう取り組んでいくのだろうか。

廃業した白東館自体も創造拠点になっていくかどうか。

白須賀宿は、元はもっと海岸沿いにあったが、宝永地震(1707年)の被害を受けて、潮見坂の上の現在地に移った。

「遅れてきた戦国武将」(その13)で紹介した岩佐又兵衛がこの宿を通ったのは、寛永14年(1637)のことなので、この巨大南海トラフ地震の前だった。

だから、又兵衛は塩田に海水を撒く女と、濃縮した海水を煮詰める燃料として薪を切ってきた男を見て記録した。
当時、海岸にはどこにも塩田があったが、その維持には膨大な燃料が必要で、薪を供給する塩木山こそ、塩田以上に重視された。
塩汲女と薪を運ぶ男は塩田につきものだった。


オランダ商館付きの医師として江戸参府を果たしたケンペルも白須賀宿を記録にとどめていると、白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」のパネルが教えてくれる。

ケンペルの紀行は膨大な『日本誌』にまとめられているが、これまた宝永地震の前のことであった。
確かに白須賀のことをケンペルは二百戸ばかりの人家のある海岸の村と記載している。

ケンペルの『日本誌』が初めて公刊されたのは、その死後、1727年の英訳本であった。
これは大型の上下二冊で、美しい挿絵が何枚も印刷されている。
その実物を手に取る機会があり、しばらくお借りし読みふけったことがある。
三百年の時間差を感じさせなかった。

実に興味深いことには、18世紀の英語の本は、辞書の助けを借りながらではあるが、今の日本人にも何とか読める。
ところが、当時の日本、ということは吉宗が将軍だった享保の頃だが、当時出版された日本語の本を今の日本人で読める人は極めて少数である。

つまり、英語を母語とする人々は、その歴史を知るのにあまり苦労せず資料を読み解けるのに、我々は、わずかに三百年前の母語の文章も読めず、したがって過去を知ることにも、当時の人々の息遣いに接するのにも大きな障壁があることになる。

これでは、地域社会の創造はできないとまではいわないが、折角の先人の知恵の集積の多くを知らないままに、社会資本の蓄積なく、社会創造に取り組むようなものではないか。

街道の宿場にはあらゆる人が通過した。
ケンペルのようなオランダ商館の一行や朝鮮通信使、琉球の江戸登りなど、外国人までもが通って行った。

ただ通過するだけの者もいるが宿泊する者もいる。 長期に滞在する者もいる。
そうして滞在したであろう人の残した書画を読み解くワークショップをこの白東館で実施できれば、地域の歴史と文化を知るうえで大いに役立つだろう。

旅館の歴史は実に面白い。

東海道を東へ進んだ興津宿では、脇本陣だった「水口屋(みなぐちや)」の歴史を、何と米国人が記録している(オリバー・スタットラー『新版ニッポン歴史の宿』)。

小説ではあるが、その資料博捜は精緻なもので、近世近代の歴史の基礎知識を得るのにも有益である。
しかもそれを地元企業の鈴与が再刊している。

こうした企業の文化活動としても優れた先進事例がある。
白須賀宿でも残された文書を読み解けば、地域振興に役立つのではないだろうか。
過去こそが未来を読み解くカギである。

こうした理由からも、湖西市白須賀宿でのアートプロジェクトに大いに期待している。

白須賀宿ではかつて柏餅を名物として提供したという。
季節を少し先取りするが、最後に一句。

  塩田を海に返して柏餅

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