加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
家康が大御所となって駿府に移ってから二年、その大御所の駿府城から、遠く毛利氏の居城がある萩へ手紙を送った者がいる。
今回の主人公「ジュリアおたあ」である。
手紙を受け取った者の末裔は、これを大切に保存し、近年地元の博物館に寄贈された。
寄贈を受けた萩博物館で、その手紙がはじめて展示公開されるというので、いてもたってもおられず萩まで見に行った。
手紙の筆者「ジュリアおたあ」は、朝鮮王朝の高官の娘で、秀吉の朝鮮出兵時、14歳のころに捕虜として日本に連れてこられたという。
紆余曲折の後、家康に「御奉公」して、格別に寵愛された。すなわち「おたあ」と通称された家康の侍女で、キリシタンとしての洗礼名「ジュリア」を持っていたので、「ジュリアおたあ」である。
当人の意思にかかわらず、世界史の中で、東アジアにおける外交と交戦、交易と海賊、異文化の衝突と交流などなどの要を象徴する存在だった。
家康の外交を今日の外交と比較すると、家康の視野の広さと平衡感覚には驚嘆させられる。
「天下統一を成し遂げた家康にとって、幕藩体制の確立が急務だった。内政はもちろん、外交上にもいくつもの課題を抱えており、その最大のものは、秀吉による朝鮮出兵の戦後処理にあった」(本シリーズの第14回)。
それで、「ジュリアおたあ」の自筆の手紙が新たな歴史世界を解き明かすかも知れないと、急に思いついて萩まできたのだ。
萩を訪れたのは二十年ぶりくらいだろうか。
萩は、日本海に注ぐ阿武川の下流の二つの川、橋本川と松本川とに挟まれた三角州上に発達した町である。
砂浜に立つと、左手に三角形の美しい山が海に張り出し、その向こうに夕日が沈むはず。
急遽予約したホテルは確かに砂浜に面していて、左手の指月山(しづきやま)の向こうに夕日が沈む。
景色は二十年余りの間変わらなかった。
当時毎年のように山口の地へ通ったのは、秋吉台の名を冠した音楽祭、山口情報芸術センター、秋吉台国際芸術村などを訪問したためだが、時に、萩まで足を延ばすこともあった。
その経緯については拙著『祝祭芸術-再生と創造のアートプロジェクト』に書いたので今は繰り返さない。
博物館へはホテルから歩いていける。
あたりは萩城の三の丸があったところで、堀内伝統的建造物保存地区に指定されている。
緑も多く、塀に囲まれた瓦屋根の美しい建物が並ぶ。
さて、「ジュリアおたあ」は、まことに数奇な運命の人で、連れてこられてキリシタン大名小西行長に引き取られたので、その縁で洗礼を受けたものと考えられている。
関ヶ原の戦いで西軍の武将であった行長が処刑された後、「おたあ」は助けられ、今度は家康に引き取られ侍女となり、大御所となった家康が駿府に移るのに従ったらしい。
博物館では、時あたかも幕末明治の古写真の展覧もあり、案内係の人が口々に「長州ファイブ」と呼び掛けている。
今日の目的は、幕末明治ではなく江戸初期にまで遡ることだが、入り口付近に展示されているので、井上馨やら伊藤博文やらの写真に一瞥もくれず通り過ぎることもできない。
しかし、考えてみれば、家康が基礎を築いた外交政策によって、江戸時代は二百五十年にも及ぶ平和を維持したが、長州ファイブを含めた明治維新政権は、その富国強兵策によって、抜き差しならぬ戦乱の時代へ突入し、百年もたたぬうちに、あの壊滅的な戦争に至ったのだ。
だとすると、家康ゆかりの遺品と幕末明治の写真には、比較検討すべき課題があると、博物館はシニカルに言っているのかも知れない。
残念ながら、気の急く身には、その検討をする暇がないので、ここはその道の専門家に任せて、手紙のある場へと急ごう。
館の奥まったところに手紙は展示されていた。
手紙の前にまず目に入るのは、萌黄を中心にした落ち着いた色彩をもつ美しい小袖である。
デザインが実に斬新だ。 亀甲文様の上下に絞り染めが散らされて、さらに三葉葵の紋章があるところから、研究者は家康が着用したものだと考証している 注1。
この小袖の左手に手紙が二通展示されている。
展示ケースにさえぎられて、手紙までの距離が遠い。
急に思い立った久しぶりの博物館見学で、双眼鏡を忘れてきたことが悔やまれる。
あったとしても、どうせたいして読めやしないに違いないが、そこはありがたいことに専門家の解読がある。
博物館の研究員による解読と写真を頼りに読めるところだけでも指でなぞってみよう。
そうすれば、あら不思議、筆者の息遣いまでが聞こえてくるようではないか。
書きなれた美しい書だ。
漢字交じりの仮名文字によるほれぼれとする書である。
考証により慶長十四年(1609)六月十五日付けと考えられる最初の書状では、特色ある「ん」の字に目が留まる。
「ぞんじ」という表記が二か所あって、その「ん」の字である。
中央上から左斜め下に入った筆が狭角で水平に右へ運ばれ、そして、中央に向けて左上に払う、まるで三角形を描くような文字が筆者の意志の強さをしている。
同時に情愛の細やかさが、丸みを帯びて伸びやかな書に表れている。
手紙は「おたあ」から弟に書き送られたものだ。
会いたい、駿府に来てほしい、と手紙は訴えている。
会いたい思いがあふれている。
文面によると、毛利家の家臣のことをよく知る人と面談したところ、話の中に出てきた人物が、どうも我が弟のように思えるので、それであなた(そもじ様)に書き送るのです、と言っている。
そしてあて名の仮名を漢字に直して表記すると、「毛利殿御内平賀勝二郎殿にて高麗の御人様」となる。
弟らしき人(高麗の御人様)は、毛利の家臣であった平賀勝二郎のもとに養われていた。
このように「高麗の人」が話題となったのは、この手紙の書かれた二年前、慶長十二年(1607)に江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の名称は、回答兼刷還使)が来航したことにかかわりがあるであろう。
秀吉の朝鮮出兵後の懸案であった日朝の外交関係が再開した。
使節団の帰国に際して、捕虜1300人が帰還したとされる。 当然それに先立って、捕虜の調査が行われたであろう。
通信使は江戸で将軍秀忠に謁見した帰路に駿府で家康に拝謁している。 だとすると、家康の周辺でも「高麗の人」のことが話題となりえた。
そうした状況の中で、「おたあ」は自分の弟らしき人の存在を知ったのである。
まだまだ多数の捕虜が残っていた時代であった 注2。
手紙に「おたあ」は、父の名を「せいわううん(世王温)」、母の名を「おつくんし(乙君時)」と記し、父が王朝の五大老の一人であったとし、「高官」であったことを裏付ける。
さらに、姉弟妹たちの名前と年齢、朝鮮における乱の年にどのようにして家族が別れ別れになったのかを記している。
乱の当初、「おたあ」は十三歳、弟は五、六歳だったという。
返事がないので、八月十九日付で再び手紙を書く。
自分の手紙が届かなかったのではないか、と不安になったのだ。
もし弟ならば、すぐに駿河まで会いに来てほしいと姉は弟に呼びかける。
この国に来ておられるとは思いもしなかったので、今まで探さなかっただけれど、どう見ても弟に違いなさそうだ。
この時のあて名は「うんなき殿」となっている。
彼らがこの国に来てからすでに十数年がたっていた。 手紙を受け取った方も驚いたであろう。
「うんなき」が身を寄せていた平賀家、さらには毛利家にも報告し許可を得て旅立つことができたに違いないが、毛利藩にとっても、これは嬉しい知らせだったはず。
弟「うんなき」は飛ぶようにして駿府に来て、駿府の城で、姉「おたあ」に会った。
「うんなき」は歓待された。
大御所家康からご馳走をいただき、馬、刀(信國)とともに「葵御紋付之御服」を拝領した。
この拝領の「御服」が今回展示された小袖である。
家康に寵愛された「おたあ」にはそれだけの力があった。
家康が「おたあ」を引き取ったのには、その美貌と出自があったためであろう。
今その手紙に接して、この人の動きを見ると、情愛の細やかさと意志の強さ、そして確かな記憶力と知性が備わっていたことがわかる。
家康は「おたあ」のそうした総合的な人格に惹きつけられたのだ。
この駿河行きによって、「うんなき」は二百石の知行を持って毛利家に召し抱えられることになる。
そして、村田安政と名乗った。
この村田家の末裔から、手紙、小袖が博物館に寄贈されたのである。
家康は実に見事な全方位外交を展開しており、英国出身のウィリアム・アダムスらを外交顧問にしていたように、カトリックに必ずしも好意的ではなかったにもかかわらず、フィリピン、メキシコを拠点とするスペインとの交易も期待していた。
家康の外交政策の結果、慶長十六年(1611)スペイン国王からの公式使節が駿府で家康に謁見した。
大使ビスカイノの報告では、「ジュリア」も同席していたという。
手紙の書かれた二年後のことだ。
一行は大歓迎を受け、キリシタンだけではなく、家康の子弟も大使セバスチャン・ビスカイノの宿舎を訪問した。
その中に、我らが主人公「ジュリア」の姿もあり、ミサに参列を希望したという。
家康の子どもたちはもちろん、「ジュリア」も家康の許可のもとにビスカイノを訪問したに違いない。
ところが翌慶長十七年(1612)になって、事態は急変する。
岡本大八による疑獄事件が発覚した。
詳細は省くが、交易に絡む家康の朱印状の偽造をも含むこの事件が、家康のキリシタンに対する心証を決定的に悪化させた。
家康は外国との交易の経済的のみならず安全保障上の価値をもよく理解しており、幕府によるその独占を目指していた。
だから必ずしも好感を持っていなかったキリシタンをも許容していた。
しかし、この政策を致命的に危うくする者が幕府の官僚の中におり、しかもその者がキリシタンであったことにより、家康はキリシタン禁教に踏み切る。
幕府の官僚の中にもキリシタンがいることを家康は知っていたはずで、現にキリシタンである「ジュリアおたあ」を傍においていて、側室にまでしようとしたので、キリシタンの存在自体を家康は恐れはしなかった。
しかし、キリシタンである幕府の役人が、同じくキリシタンである西国の有力大名と手を結び疑獄事件を起こすとなっては、これを許容はできなかった。
岡本大八を処断した後、直ちに禁教政策に踏み切る。
これにより、家臣の中のキリシタンは改易などの処分を受け、キリシタン大名もいなくなり、さらには伴天連の追放令も加わって、国外に追放されたり棄教したりで、表面的にはキリシタンは存在しなくなった。
家康にとって誤算だったのは、「ジュリアおたあ」が棄教を拒んだことであった。
家康は自分が命じれば、「おたあ」は棄教するものと思っていたのではないだろうか。
あれほど恩愛細やかに接したにもかかわらず、君命よりも信仰を重視する者がいようとは、家康の理解を超えていた。
信仰のありようの差。
家康にも「厭離穢土欣求浄土」に代表される信仰があった。
人それぞれにそれぞれの信仰があることは理解していたが、君命を超える信仰は理解できなかった。
どちらがいいとか悪いとかの話ではない。
信仰のありようは、人によって違っていた。
側室となることを拒絶されても「おたあ」を失いたくはなかったが、棄教を拒否されたのでは、流刑を避けることはできなかった。
「おたあ」は伊豆大島に流された。
神君家康公にして人生最晩年の大誤算であった。
岡本大八たちの処断は家臣に任せておけばいい。
しかし、「おたあ」に拒絶された心の傷は、自ら癒すしかなかった。
これが家康のキリスト教嫌悪を決定づけたのではないか。
時に家康の齢は古希に達していた。
さて、朝鮮王朝の高官の娘として生まれ、十四歳の時捕虜として日本に連れてこられ、キリシタン大名に引き取られ縁で受洗しキリシタンとなり、関ヶ原の戦いで主君が処刑されて、勝者家康に引き取られ侍女となり、生き別れになった弟とも再会し、しかし、棄教を拒絶して流刑になった「ジュリアおたあ」はその後どうなったか。
後に赦免されて、最終の流刑地神津島から出て、大坂、長崎に住んだという記録があるという。
手紙を見ながら心が震えた。
その内容に歴史を大きく書き換える程のことが記載されているわけではない。
しかし、数奇な運命の中で、信仰を心の支えとして生きて、さらには禁教期に入ってもキリスト教の信仰を堅持した人の確かに生きた証がここにはある。
この列島だけを見ていては歴史は判らない。
東アジアの多様な歴史の動きの中で、ひいては世界の歴史の中で列島の歴史も考えなければならない。
駿河の歴史も、萩の歴史も、郷土史と世界史とのつながりの中で見えてくるものがある。
その意味で、史実としての新事実の発見以上に、東アジアの歴史とキリシタンの信仰を巡る考察に欠くことのできない資料である。
「うんなき」殿の子孫、村田家の人々がよくぞこれを大切に保存し、残しておかれたことだ。
この波乱万丈の人生は、高位の家に生まれ、捕虜となった後も高官に侍したために記録が残ったが、同様に歴史に翻弄されても、多くの庶民は記録にも残らない。
手紙の料紙や、書くために使われた筆、墨、硯をつくった人たち、あるいは、小袖の布地を織り、染めた人たちは、どういう人生を送り、何を楽しみにして生きてきたのだろうか。
そうした歴史の発掘にも力を入れたいものだ。
萩博物館の長屋門の軒下に、燕が巣を掛け、子育てをしていた。
しばらく眺めていると子燕が鳴いている巣から、親燕が猛スピードで飛び立っていった。
その昔、田舎の我が生家にも毎年燕が巣作りをしたのを思い出す。
懐かしい街を歩き、生きてここまで来て、波乱万丈の人生を生き延びた、四百年も前の人だが、その息遣いを感じえたことに深い感慨を覚えた。
人は時空を超越して心を通わせることもできるのだ。
(注1)福島雅子「新出の伝徳川家康下賜「白練緯地葵紋付変り段亀甲模様小袖」について」(『国華』1533号、2023年7月)。 同論文によれば「ジュリアおたあ」の手紙の解読は、萩博物館の平岡崇による。 本稿は、両者の研究に全面的に負っており、博物館による公開資料、写真をも参考にした。
(注2)朝鮮通信使については研究も進んでいるが、ここでは古典的名著、辛基秀『朝鮮通信使-人の往来、文化の交流』(明石書店、1999年) を参考にあげておく。