COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.9
新年のご挨拶 「海上から富士を眺めれば」

明けましておめでとうございます。

新年にふさわしいのはやはりこの歌。

 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

言わずと知れた山部赤人の作である。 悠揚迫らぬ歌いぶりで名歌とされて万葉集に載っている。
ところが、この歌が詠まれてから五百年ほどたったころの歌人である藤原定家にとっては、これが古風に過ぎると感じられたらしい。
第一に「田子の浦ゆ」の「ゆ」という助詞の意味が分かりにくい。
そこで、新古今集に入れるに際しても、また、百人一首に入れるに際しても、「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」と改変してしまった。

この改変の要因の一つには、山部赤人が富士を実際に見ていて、その記憶の中に高嶺に雪を頂く雄姿があったのに対して、定家は富士を見たこともなく、あくまでも想像上の歌枕にすぎなかった、という両者の大きな違いがある。

山部赤人は歌の名手だったので、下級の貴族にもかかわらず、宮廷歌人として宮廷に出入りした。
この富士の歌も、大君の偉大さを富士になぞらえて荘厳する長歌に付属する「反歌」として読まれたものだ。
その長歌では、富士を日の光も月の光も遮る程の威光をもつ、すなわち神のごとき存在として仰ぎ見ていて、おそらくは宮廷の儀式に際して詠まれたものだろう。
だから、その反歌であるこの歌も、実際に富士の姿を眼前にして詠んだものではない。
もちろん赤人の記憶の中には鮮明に富士の姿があったので、「真っ白に富士の高嶺に雪が降っていたのだなあ」と感嘆し、その姿を大君に見立てた。


さて、「ゆ」という主として奈良時代以前に用いられ、その後は用いられなくなったらしい助詞は、移動の起点、「○○から」を意味すると説明されているが、田子の浦からどこへ移動したか。
海上に出たものと理解していたが、砂浜の広い所に出たという解釈もあるらしい。
わざわざ「うち出でて」といっている以上、私は海上説をとりたく、それだからこそ「見れば」(見ると)という行為が一層引き立つのではないだろうか。
「田子の浦から海に出て見ると」と歌いだして、何を見るのだろうかと人々の期待を高めておいて、富士の高嶺の雪を出した。
富士は海から見るのが最も美しい。

田子の浦港と富士

赤人の時代はもちろん、近年まで芸術作品は注文主がいて、その意向に応じてつくられることが通例であった。
その意味では、この富士の歌も儀礼的な歌だったはずだが、しかし、千三百年も後の今日の人の心を打つのは、赤人が注文主の意図を超えたからである。

一方、赤人には宮廷歌人としての儀式の歌だけではなく、実に美しい相聞歌もある。

 春の野のすみれ摘みにと来し我ぞ野を懐かしみ一夜寝にける

春の野の菫を摘みに来た私だが、その野があまりにも懐かしく感じられたので、一晩野に寝てしまった、というのである。

こんなにも繊細な心の襞を示す歌がつくれた。

ところでこれは実のところ、後朝(きぬぎぬ)の文に書いて女のもとに贈った歌である。妻問婚(つまどいこん)の時代、早朝に男は女のもとから帰らねばならず、そして何より重要だったのが、できるだけ早く歌を贈ることだった。
後朝にこれだけ美しい歌を贈られたら、女はどう返事を返したか。 残念ながら返歌が記録されていない。

新年早々だから詮索もほどほどにしておくべきだろうが、これは実際に赤人が妻に贈ったものだろうか、という疑問は消えない。
歌の名手として宮中に知られていた以上、高級貴族が代作を依頼してくることもあったのではないだろうか。
赤人は宮廷歌人として禄を得て生活を成り立たせた。 時には貴族たちの依頼に応じた余禄もそれに加わったのではないか。
そうした注文主の注文に応えることで生きてきたし、注文通りの凡庸な歌もある。
しかし、しばしば注文主の意図を超えた。
そうした仕事によって、千年以上もの長きにわたって高い評価を得た。


赤人には遠く及ばないが、年初の恒例としているので、自作連歌「三つ物(みつもの)」をご披露しよう。

 浜松も黄金に輝く初日かな

  宝の船を降す天竜

 芹薺(なづな)鄙(ひな)の雑煮を彩りて

初夢では浜松の緑も黄金に輝き、その名も天竜川からは宝船が下る。 その夢は夢として、我ら在地の庶民は、雑煮に芹や薺が彩を添えるほどのささやかな幸せで十分だ。

民の祝祭芸術は今年もまだまだ続きます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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