COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.13
遅れてきた戦国武将たちの祝祭芸術

江戸初期に風流な屏風や細密絵巻物を描いた「奇想」の絵師、岩佐又兵衛が浜松に宿をとったのは寛政十四年(1637)のことだった。波が「ざざんざ」と打ち寄せ、春とはいえまだ寒い日であった。
その寒さを忘れるためと称して、朝から小唄を歌い酒盛りをしたらしい。 

 浜松の音ざざんざに狂わされ小唄をうたひ酒盛りをする

20年余り住み慣れた福井を出て、これまた若き日に活躍した懐かしい京に立ち寄り、さらに東海道を江戸に下る道中に、名所浜松でこうした祝祭的な歌を残している。

時に又兵衛はそろそろ還暦を迎える年齢であったが、江戸に赴くのは、幕府から招聘され、川越の仙波東照宮に三十六歌仙の歌仙絵を描くためであった。 仙波東照宮はいうまでもなく、久能山東照宮、日光東照宮と並び、家康を東照権現として祭る三大東照宮の一つである。

京都で、洛中洛外図(舟木本)に代表される風流な絵を描き成功をおさめ、さらに北ノ庄(福井)に移って、又兵衛風絵巻群と呼ばれることになる膨大な絵巻を残した画家はついに徳川幕府から直接絵の注文を受けるに至ったのである。

又兵衛はこの時の道中の有様を自ら『廻国道之記』という文章に残している。

本シリーズの第1回目に紹介した小夜の中山も越えている。 そして、西行が訪れて「また越ゆべきと思いきや命なりけり」と詠じた歌にももちろん触れている。 又兵衛が小夜の中山の坂の途中に宿ったのは「雨もふる雷さはぎ暗き夜」で、恐ろしさに眠れなかったらしい。

西行と岩佐又兵衛は時代も違うし、片や和歌、片や絵画という扱う分野も違っている。 にもかかわらず、小夜の中山を通過するとき又兵衛は西行の歌を思い出す。

これがある意味で日本文化の特色であった。

いかなる表現活動も突然に表れるのではなく、過去の文人たちの仕事の積み重ねの上に成立したのである。 自己表現が自己表現にとどまらず、先人の何を踏まえているかが重要で、芸術は文化共同体の中で成立していたといえようか。

先人の表現活動に詳しいだけではなかった。 又兵衛は白須賀(現湖西市)の宿ではこんな細やかな観察もしている。

浜辺では塩汲桶を担いで浜辺の砂地に撒いている女がいる。
塩田における製塩の風景だが、そこへ男が塩木、つまり製塩に必要な薪を担って帰ってくる。 汗びっしょりになって担いできたその重荷の上には、春の土産に花が添えられている。
遠くから運んできたらしく、花はすでに萎れがちだが心優しい男だと又兵衛は感想を漏らしている。
男は不揃いな生垣に着物をかけて干し、柴の戸、竹の柱に松をかけた粗末な家で転寝を始めた。

まさに物語のような庶民の生活をつぶさに観察する目を持っていたので、又兵衛は、膨大な細密絵巻物が描けたに違いない。


ところで、京都、福井、そして晩年は江戸で仕事をした又兵衛を静岡県ゆかりの祝祭芸術家として取り上げるのは、東海道を通過した縁によるだけではない。

辻惟雄によって奇想の画家として世に知られることになった又兵衛の代表作とされる山中常盤物語などの、いわゆる又兵衛風絵巻物群の相当部分が熱海のMOA美術館に所蔵されているからである。 同館の告知によると、そのうちの『浄瑠璃物語絵巻』全12巻がこの春展示されるので、我々も見ることができる。

こうした一連の絵巻は、まことに絢爛豪華であるが、一方で血なまぐさい禍々しい場面をも含んでいる。

はじめて、『山中常盤物語』を見た時にも、盗賊が女人の衣類を奪い、その挙句に惨殺する場面など、いささか理解を越えて戸惑ったものだ。 こうした表現の意味は何だろうか。

歴史家の黒田日出男は、又兵衛風絵巻物群を全部七種を上げており、それぞれに六巻とか十二巻とかあるので、すべての絵巻を並べると、現存するものだけでも全長は実に1.2kmにも及ぶという。 これだけ膨大な細密絵巻物を一人で描くことはまず不可能であろう。

したがって作者についてもいろいろ専門家の間で議論があるらしいが、黒田は、すべてが又兵衛及びその工房によって描かれたものとしている。

さらには、高価な顔料が惜しげもなく大量に絵巻には使われており、その料紙に至っては、越前和紙の特注品であると考証している。 ただでさえ紙が貴重な時代に、全長1.2kmにも及ぶ特注和紙を使うには、特別の財力と権力をもったパトロン、すなわち注文主がいたはずだといい、それを黒田は、北ノ庄(福井)の藩主松平忠直だと断じている。

松平忠直は、その軍団が大坂夏の陣で城に一番乗りをし、三千を超える敵の首級を上げて大活躍をした。 しかし、論功行賞が初花の茶入れ(初花肩衝)だけで、領地がなかったことに不満を抱いたという。

しかし、時代はもはや戦功に領地を与える時代ではなくなってきていた。 さなきだに、忠直は若くして大藩を相続したために、その統治能力を疑う重臣の間でもめ事が絶えなかった。

忠直は大御所家康の孫、将軍秀忠の甥であり、しかも秀忠の娘を正室に迎えていた。 血気盛んな若殿は、そのエネルギーを持て余して、ついには「ご乱心」に至る。 合戦を必要としない時代に入って、大名に課せられた仕事は領国の統治にあったにもかかわらず、大坂夏の陣の後も血気にはやる、いわば遅れてきた戦国大名だった。

ご乱心の一方で忠直は、岩佐又兵衛という希代の絵師を発見し、次々と絵巻物を描かせることによって、戦乱ではなく文化に貢献するという、後世にとっても貴重なレガシーを残した。

松平忠直が遅れてきた戦国武将であるとすれば、絵師岩佐又兵衛もまた遅れてきた戦国武将といえぬこともない。

又兵衛は摂津伊丹の城主だった荒木村重の子だといわれる。村重が信長に反旗を翻したため、一族郎党皆殺しにあったが、乳母の機転で助け出された。 やがて京都で絵師として大成する。 戦乱の世に戦役に従事せず、絵師となった。

かくして遅れてきた戦国武将である忠直と又兵衛は、出会うべくして出会ったともいえる。

戦乱の世の残虐なる世界を生き延びた二人は、浄瑠璃物語を題材とした波乱万丈の物語を絵巻物に仕立て上げた。 そうして、徳川の平和を危うく生き延びて、膨大な奇想の絵画を残した。

戦乱の世の犠牲となった無数の人々の鎮魂を果たすことこそ、彼らが当然に取り組まなければならない仕事であったはずである。 その意味で、又兵衛風絵巻群こそは、遅れてきた戦国武将たちによる鎮魂を兼ねた祝祭芸術であった。

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