文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。
いっぷく
vol.53
暮らしの技術が詰まった「趣みん芸」
(チーフプログラム・ディレクター 櫛野展正)
真剣な顔をした大人たちが、まるで品評会さながらに、それぞれの流木を手に取ったり色々な方向から眺めたりしては、頭を悩ませている。
流木の周りには「弱ったイノシシ ¥500」「ダイオウイカ ¥600」「聖火 ¥500」など様々な言葉が書かれた紙が並べられていた。
これは「趣みん芸友の会」によるワークショップのひとコマで、静岡県内外から集まった10名ほどの参加者が、藤池作男さんが持参した流木に名前と値段をつけていくという企画だ。
当初は、もう少し違う形での開催を考えていたようだが、当日になって藤池さんから企画提案があり、このような方式での実施となったようだ。
この企画の面白いところは、書かれた名前や値段に正解がない点にある。
参加者ひとりひとりの発想について、「名付けるときや販売するときのヒントになるからね」と藤池さんは語る。
静岡県西伊豆町在住の藤池さんは、こうした流木を海岸で拾い集め、独自のネーミングをつけては、直売所「はんばた市場」に卸している。
流木だけでなく、梱包をする際に使うPPバンドで制作したカゴや動物を模ったアクリルタワシなど道の駅や農産物直売所には様々な手工芸品が販売されている。
「趣みん芸友の会」は、これらを総称して「趣みん芸」と名づけ、作者への取材や作品収集を行なっている。
趣味の「民芸」だから、「趣みん芸」なのだという。
よく知られているように、そもそも「民芸(民藝)」とは、「民衆的工芸」の略語であり、柳宗悦や、河井寬次郎、濱田庄司らよってつくり出された造語のことを指している。
当時は「雑器」「下手物」などと軽んじられてきた庶民が使う器や生活道具の中に、柳は美的価値を発見し、自由で健康な美が最も豊かに民藝品に表れているという理念を打ち出していった。
柳は無銘性や廉価性など8つの条件を「民芸(民藝)」に定めたが、このうち実用性や伝統性などを「趣みん芸」は持ち合わせていないことが多い。
代わりに「趣みん芸」には、ある種の脱力感という独特のゆるさが漂っているのだ。
同じ脱力感を漂わせながらも、近年急激に市民権を獲得してきた言葉に「おかんアート」がある。
「おかんアート」とは、中高年の主婦たちがつくる身近な手工芸品の総称を指しており、2003年に「2ちゃんねる」で専用掲示板のスレッドが立ち上がったことから広まった。
2022年に東京都渋谷公園通りギャラリーで開催された企画展『Museum of Mom’s Art ニッポン国おかんアート村』では、1000点以上の「おかんアート」が紹介されたが、一方で女性だけに焦点を当てていることから「家父長制の産物」としてジェンダー論を巻き起こしたことは記憶に新しい。
当然のことながら、2003年にこの用語が誕生する以前からおかんアートのような試みは、芸術という制度の外側で再生産され続けてきたのだが、作者自身が自認しているわけではなく、こうした言葉は第三者によって名づけ、価値づけされていく。
言葉が認知されて広まるにつれ、一方では作り手をエンパワーメントするものとして、他方では作り手を制度の枠外に追いやるスティグマとしての両義性を併せ持っている。
新しい言葉を生み出すことは、新たな枠組みをつくることでもあり、そこにある種のキュレーションが存在する以上、どうしてもそこからこぼれ落ちてしまう人たちがいる。
それは「おかんアート」や「趣みん芸」だけに限らず、「超老芸術」という言葉を生み出した筆者自身にも当てはまることとして自戒を持って述べておきたい。
ここで話を「趣みん芸」に戻せば、道の駅や農産物直売所で販売するためには、そこへ繋げる協力者の存在が不可欠であり、不特定多数の人が訪れる場であるが故に、公序良俗に反するような表現をつくることはできない。
つまり、必然的に「趣みん芸」の作り手たちは、各地域のコミュニティと接続していることから、その表現の背後には豊かな地域コミュニティの姿が浮かび上がってくるというわけだ。
その制作方法は多種多様だが、藤池さんの流木がまさにそうであるように、共通するのは、あるものを別の要素に利用するという「見立て」の要素であり、そこには地域の人たちの手によって即興的に生み出されたアイデアが存分に発揮されている。
ある材料が別の用途へ転用されるなど、元になった素材と出来上がった造形物の落差こそが「趣みん芸」の魅力なのだろう。
もっとも、この見立ての手法は、古来より様々な分野で用いられてきたが、江戸時代になって見立ては文化全般で広く使われるようになった。
特に江戸時代後期に江戸や上方で流行した見世物や祭礼の「造り物」には、陶器や金物、野菜など日用品を素材として歴史上の人物や動物を模した一式飾りなど、人々が趣向を凝らして制作したものが多く、日常的な「ケ」の世界を非日常の「ハレ」の場に変える装置として機能していた。
そのように考えていくと、道の駅や農産物直売所というある種「ハレ」の場で並べられている「趣みん芸」とは、市井の人たちの手による日常的な造り物文化のひとつと言えるのかも知れない。
そして、名もなき、あるいは匿名の人々による巧みな手わざは、私たちの中に眠っている生活の中で限られた材料を工夫して使うという暮らしの技術を呼び覚ましてくれるのだ。