COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.36

ながめ暮らしつ、スケラボを想う

(チーフプログラム・ディレクター 櫛野展正)

静岡県長泉町にある複合文化施設「クレマチスの丘」にあるヴァンジ彫刻庭園美術館は、イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの世界で唯一の個人美術館として知られている。

ジュリアーノ・ヴァンジ《壁をよじ登る男》

この度、開館20周年記念の企画展として始まった『Flower of Life 生命の花』のオープニングアクトを務めたのが、静岡県東部を中心に様々なジャンルのアーティストと作品を発表してきたスケラボ(Scale Laboratory)だ。


初夏のような日差しが照りつける中、美術館入口に集まった大勢の観客を出迎えてくれたのは、同じく「クレマチスの丘」の敷地内にあるベルナール・ビュフェ美術館の所蔵作品《サーカス》に扮したパフォーマーのわっしょいゆ〜ただった。

直線的で硬質な黒い直線と角張った人物像がビュフェ作品の大きな特徴だが、その物憂げで寂しげな表情は、まさに絵の中から出てきた人物そのものに見えてしまう。

彼が無言で誘う視線の先には、同じくビュフェの《カルメン》に扮したパフォーマーのミュータンが立ちはだかっていた。

3メートル近い身長になったミュータンは、園内をゆっくりと歩き回り、一躍注目の的になっていた。

そして、ジュリアーノ・ヴァンジ《竹林の中の男》の中と、一面に白いゴロタ石が敷き詰められた中では、目黒陽介山村佑理というそれぞれ2人のジャグラーがボールを自在に操り、観客を魅了した。

園内にはゆったりとした音楽が流れており、自然と調和した静けさを感じるヴァンジの彫刻作品を背景に、次々と出没するパフォーマーたちへ誰もが釘付けになった。

特に観客から多く写真を撮られていたのが、展示棟前に出没した松岡大による白塗りの舞踏だ。

やがてパフォーマーたちは、次々と吸い込まれるように各々のパフォーマンスを続けながら展示棟へ入っていき、観客もそれに続いた。

館内の一角では、こみてつイーガルの2人による生演奏が行われており、それが屋外にも流れていたのだ。

棚田康司《十一の少年、一の少女》

次第に、その演奏に呼応するようにイラストレーターのサノユカシが大きなガラス面に伸びゆく花々をイメージしたような絵を指などを使って描き、その美しさに観客からは感嘆の声が漏れていた。

それぞれのパフォーマーたちは、展示室内を経て、次第にクレマチスの花々が咲き誇る庭園へと領域を広げていく。

僕が特に惹かれたのは、目黒陽介と山村佑理という2人のジャグラーによるパフォーマンスだ。

庭園では目黒陽介は輪を首にかけ、山村佑理はボールの数を5つに増やし、それぞれ音楽に合わせて、まるで軽やかに踊るように即興的なパフォーマンスを展開していった。

決して華美ではないけれど、2人の息の合った動きに思わず、見惚れてしまう。

共通していたのは、ジャグリングの中に「落とす」という行為を入れていることだろう。

目黒陽介や山村佑理が投げた輪やボールは、それぞれ芝生の上や地面に落下していく。

沢山の数を投げたり綺麗に投げたりすることよりも、落とすこともジャグリングとして定義しているその表現の幅広さに驚かされると共に、そうした彼らのパフォーマンスが「現代サーカス」と評されている所以なのだろうと感じる。


僕がスケラボの公演を目にしたのは今回が初めてだったが、本イベントが何より素晴らしかったのは観客との偶発的なコミュニケーションにある。

最初に仕掛けたのは、松岡大だった。

突然観客の手を引いて共に即興で踊り出したり、観客たちの間から突然現れたりと神出鬼没な松岡の舞踏に僕らは翻弄されていった。

庭園では、わっしょいゆ〜たやミュータンが大きな額を抱えて無言で現れた。

ひとりの男性がミュータンによって誘われ、額の前でポーズを決めるとそれが僕らにとっての説明書となった。

その場で集まっていた女性たちや子どもたちが次々と手を挙げ名乗り出て、各々で好きなポーズを決めて皆から拍手を浴び始めた。


事件が起きたのは、その後のことだ。

目黒陽介や山村佑理が落とした輪やボールを子どもたちが思わず拾おうとした。

最初は制止しようとしていた親たちも、パフォーマー2人の優しい眼差しで、すぐに理解したようだ。

目黒が芝生に並べた輪を「けんけんぱ」のように遊ぶ子がいれば、目黒も対面から反応して近づいていく。

落としたボールを山村に渡そうとする子がいれば、わざと受け取れないように山村が逃げ回る。

子どもたちを巻き込んだ即興性のあるパフォーマンスの何とも幸福な光景に、僕はすっかり感服してしまった。


スケラボは、これまで使われていないビルの一角やショッピングモール、そして保育園など多様な場所でパフォーマンスを展開してきた。

そうした中で、「対話と演出」を大切にしてきたというスケラボだが、それは終了後のアフタートークなどではなく、こうした観客との身体性を伴った対話こそが、もしかするとスケラボが目指していたものだったのかも知れない。

スケラボ主宰の川上大二郎

庭園という開かれた、そして多彩な人が集う場がそれを後押ししたのだろう。

そもそもパフォーマンスとは観るだけのものではなく自分で体験できるものであり、スタジオで習うだけでなく道端など、どこでもできるものだ。

表現は僕らの手の中にある。

そんな根源的なパフォーマンスの魅力を僕はこの日、スケラボから教わった。

後から調べてみると、目黒陽介や山村佑理は、ジャグリングと音楽を軸とした現代のサーカスカンパニー「ながめくらしつ」のメンバーとして知られている。

この「ながめくらしつ」という言葉は、『古今和歌集』や『伊勢物語』で詠まれた恋歌の中に登場する。

起きもせず 寝もせで夜を 明かしては 春のものとて ながめ暮らしつ

要約すれば、「あなたのことを思い続けて、起き上がりもせず、眠りもしないで一晩悩み明かしては、昼は昼でまた、春の季節のつきものとして長雨をじっと眺めて、一日中物思いをして暮らしてしまった」という意味だが、偶然にもこの原稿を書いている窓の外は、歌が詠まれたときと同じ春の長雨が続いている。

こんな素晴らしいパフォーマンスを見せられたら、僕もしばらくスケラボのことが頭から離れそうにない。

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