COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.49

黄昏に咲く「花」

(チーフプログラム・ディレクター 櫛野展正)

素晴らしいものを観た。

静岡県長泉町にある複合文化施設「クレマチスの丘」にあるヴァンジ彫刻庭園美術館で開催された「スケラボ」と現代サーカスカンパニー「ながめくらしつ」の新作公演『咲き、くり返す』を鑑賞する機会に恵まれた。

美術館で開催中の『Flower of Life 生命の花』展をオマージュした本公演は、生命の循環がテーマになっており、今春よりサノユカシが繰り返し筆を入れ続けた美術館にある大きなガラス面の壁画を起点に物語は始まった。

イーガルあづみぴあのが奏でる生演奏に合わせて、安岡あこがふわりと舞う。

たくさんのボールと共に現れた山村佑理のジャグリング・テクニックには心を奪われた。

そして観客の視線は、目黒陽介の輪を使った華麗なジャグリングや長谷川愛実のエアリアル・フープを使った空中演舞に誘われていく。


あるときは芝生に座りながら、またあるときは移動して好みのパフォーマーを追いかけながら観客それぞれが自由に鑑賞することのできるスタイルが公演の大きな特徴になっている。

目と目が合い、呼吸を感じる距離でパフォーマーたちは次々と演技を繰り広げていった。

夕暮れ時で少し冷たくなった芝生の上に座り、地面から跳躍するパフォーマーや地面に落とされたボールの軌跡などを追いかけていると、まさにパフォーマーと観客が地続きで繋がっているような感覚に陥った。

普段意識することはないけれど、「重力」は存在するのだ。

重力」という漢字は組み合わせると「」になる。

僕らの身体というものは、常に重力の影響を受け、揺らぎ動き続けている。

17時になると長泉町の防災無線である『夕焼け小焼け』が鳴り響いたが、ピアニストの2人は咄嗟に転調し、安岡あこの躍動に合わせて鳥や虫の鳴き声が聞こえた。

その環境音をも味方にしたような数々のパフォーマンスに、しばし酔いしれた。

クライマックスの場面では、目黒陽介山村佑理による息の合ったジャグリングパフォーマンスに続いて、安岡あこ長谷川愛実による大掛かりな舞台装置を使った圧巻の演技に、ただ息を呑んだ。

演技を終えた山村佑理を目で追いかけると、スポットライトも当たっていない真っ黒闇の芝生に寝転んでおり、その所作のひとつひとつにコスモロジーを感じてしまう。

パフォーマーたちに惜しみない拍手が浴びせられ、気づけば辺りは真っ暗に染まっていた。

帰路の暗闇からは、あちらこちらから感想や賞賛の言葉が聞こえてきた。

誰もが口にしたくてたまらない様子で、鑑賞後に観客同士の「対話」が生み出されていたわけだ。

こうした事象も引っくるめて、僕らはプロデューサー・川上大二郎の掌の中にいるのだろう。


パフォーマンスの指南書といえば、世阿弥の『風姿花伝』が知られているが、世阿弥は舞台上に「」を咲かせる重要性を「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」と説いた。

つまり、観る者に面白さ・珍しさとともに感じ取られることを大前提とした心身で魅せようとする演出こそが「花」であるとするならば、ヴァンジ彫刻庭園美術館に集ったパフォーマーたちはそれぞれ多様な「花」を咲かせていたと言えるだろう。

ここまで書いておきながら、あえて期待を込めて未来の提言をさせていただくと、これまで視覚に障害がある人とのパフォーミングアーツの可能性を模索してきたスケラボだが、単に障害のある人の鑑賞機会の拡充という視点だけではなく、障害のある人たちもパフォーマーとして「ながめくらしつ」と共演する場面を見てみたい。

自らも重度の身体障害がある金滿里が主宰する身体障害者にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループ「劇団態変」のように、障害のある人たちの不随意運動と即興性のパフォーマンスが混じり合ったとき、どのような化学反応が起きるのだろうか。

そんな「ラボラトリー(Laboratory)」としての野心的な試みをスケラボには大いに期待したい。

写真提供:スケラボ(Scale Laboratory)

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