文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。
いっぷく

vol.74
毒がないことについて
小川 希(Art Center Ongoing代表)
こんにちは、小川希と申します。
私は東京の吉祥寺でArt Center Ongoingという小さなアートスペースを2008年から運営しています。
東京をはじめ日本全国、そして海外からも様々なアーティストやアート関係者が足を運んでくれ、スペースをスタートした当初より、少しはその存在を知ってもらえるようになってきました(と願います)。
沢山のアーティストが集まる場所ということで、最近はそのネットワークを活かし、Ongoing以外でのお仕事もお声がけいただけるようになってきました。
その中で、アートプロジェクトと呼ばれるようなものも幾つか手がけてきていまして、それもあってか、アーツカウンシルしずおかの主催で2024年に開催された『アートプロジェクトの作り方 きかくの場』という全3回の講座の講師として呼んでいただきました。
アーツカウンシルしずおかでは、地域に根ざしたアートプロジェクトを統括する人や団体を「住民プロデューサー」と名付け応援されているそうで、この連続講座では、私が自身の話をするだけでなく、そうした「住民プロデューサー」の方も毎回参加し、それぞれの活動のお話をお伺いすることができました。
まず第一回目の講座で訪れたのは島田市。
ここでは[NPO法人クロスメディアしまだ]の児玉絵美さんから現地で開催している『UNMANNED無⼈駅の芸術祭/⼤井川』を中心としたお話を伺いました。

この芸術祭は、大井川鐡道沿線の無人駅とその周辺を舞台に、県内外から招聘したアーティストが滞在制作を行って作品を発表するというもの。
2018年にスタートしこれまでに7回開催され、現在では地域にしっかりと定着。
地元の特に年配の男性の方々が、積極的にアーティストの活動を手伝っているというお話が印象的でした。

講義の後、初夏の気持ちのいい天気のもと、講座の参加者の皆さんと一緒に、地元のお茶畑にある恒久設置の作品を見て回ったのも思い出深いです。
秋に入り、第二回目の講座で訪れたのは三島市。
ここでは『三島満願芸術祭』を立ち上げ、実行委員長を務める山森達也さんからお話を伺いました。

当初はアートが嫌いだったという山森さんが、アーティストたちに出会ったことで、徐々にアートの面白さに気づき、そこから三島で初となる現代アートの芸術祭を開催するに至るお話にはリアリティを感じました。
この芸術祭がきっかけとなって、空き店舗だった物件が埋まっていった事象などもあるとのこと。

当日は少し早くついてブラブラと三島の街を散策しましたが、富士山の伏流水がいたるところで湧き街中を流れる景観はとても魅力的で、この街を舞台として、地域住民を巻き込んだこれからの芸術祭の展開が楽しみに思いました。
12月に入り、連続講座の最後の回は、浜松市へお邪魔しました。
ここでは[特定非営利活動法人クリエイティブサポートレッツ]スタッフの水越雅人さんからレッツの活動についてお話を伺いました。レッツは、2004年より、重度知的のある障害者や精神障害のある人たちと関わりながら様々な事業やイベントを開催されていて、その20年以上にわたる歴史と、展開されている活動の規模に圧倒されっぱなし。

レッツが掲げる「知的に障がいのある人がいきいきと生きていけるまちづくり」を着実に実践されていて、なんというか、ズンズンと突き進んでいくバイタリティーの強さを強く感じました。
その迷いのなさが、とてもかっこよかった。
さて、こうして静岡で展開する、三者三様のアートプロジェクトの活動を拝見し、「みんなすごいなぁー」と頭が下がる思いだったのですが、ただ、全3回の講座を通して、何処かで何かが、ひっかかる気がしたのでした。
それが何なのかを、講座が終わった後、ずっと考えていたのですが、漸くなんとなくわかってきた気がしていて、それは、それぞれのアートプロジェクトには「毒の要素」が感じられなかったということなのです。
さらに言えば、この「毒の要素」が感じられないというのは、今回見せていただいた活動だけでなく、現在、日本全国で展開されているアートプロジェクト全般に言えるような気もしていて、それが気になってしまったのです。
では、「毒の要素」とは一体なんなのか。
具体的な例を挙げて話すのがいいかもしれません。
例えば、2012年に私が手がけた『TERATOTERA祭り NEO公共』という、吉祥寺にある井の頭公園を舞台にしたアートプロジェクトがあります。
ここでは、公園という公共空間の中でアーティストたちが様々なアート作品を展開しました。
井の頭公園には、レンタルボートがある大きな池、各種運動施設、また動物園やカフェやレストランがあったりと、毎日多くの人々が訪れる都民の憩いの場として親しまれている大きな公園です。
そこで開催したアートプロジェクトで、私は山本篤さんというアーティストに参加を依頼しました。
山本さんは2023年の『三島満願芸術祭』にも参加されていたので、もしかしたらご存知の方も多いかもしれません。普段は映像作品を多く手掛ける山本さんですが、この『TERATOTERA祭り NEO公共』では、自身の身体を用いたパフォーマンス作品を発表してくれました。
その時の山本さんの作品を紹介します。

まず公園内の林の中に掘立て小屋が建っています。
その小屋には願い事のような文言が書かれた紙が大量に貼られています。
その小屋から10mほど離れた場所には受付のようなものが設置されていて、そこで願い事を書いてあの小屋に貼るとそれが叶いますよと説明するスタッフがいる。

これがアートプロジェクトの作品の一部とは知らない通りがかりの人々は、スタッフに促されるまま願い事を書いて小屋に貼りにいくのですが、そこで、突然ホームレスの格好をした男が中から現れ、「俺の家に何を勝手に貼っているんだ」と激怒します。
彼は無数に貼られた願い事の紙、そしてそれが起きている状況に対して一通り怒ったあと、また家の中に戻っていく。

願い事の紙が貼られるたびに、男は激怒を繰り返し再び自分の家へと戻っていくのでした。
そうこうしていたかと思えば、数時間に一度、男は大きな荷物を担ぎ、肩にかけたラジカセから太鼓のリズムを流しながら、公園の池のボート乗り場に向かって歩いて行きます。

きちんとチケットを買ってボートに乗り込み、男は池の真ん中へと漕ぎ進み、そこで持ってきた大きな荷物を頭から被るのです。

その男が運んできた大きな荷物とは、手作りの獅子舞の衣装なのでした。
ボートの上で、ラジカセから流れる太鼓のリズムに合わせて獅子舞は舞いを繰り返します。

徐々に、その周りにはカップルや親子連れのボートが集まってきます。
またその獅子舞の様子が伺える池の橋の上にも多くの観客が集まってきます。
そうして一通り獅子舞の舞いが終わると、最後には盛大な拍手が起こるのですが、獅子舞が衣装を脱ぐとそこにはホームレスの男が現れます。
すると、それまで集まっていた観客の多くは、中から現れた男を見て、見てはいけないものを見てしまったかのように一気に目を逸らし、まるで何も見ていなかったかのような素振りでそれぞれの日常に戻って行くのです。
さて、ホームレスの格好の男とは、実はアーティストの山本篤さんで、一連の出来事は彼の作品の一部だったのですが、公共空間で行われていたということもあり、観客はそれが作品だったかどうかはわかりません。
ただ、そこでは、非日常を体験したとい記憶だけが残るわけです。
話を戻しましょう。「毒の要素」についてでした。
あくまで私が思うアートには、こうした「毒の要素」が必要不可欠だと感じるのです。
「毒」という言葉はもしかしたら強すぎるかもしれません。

別の言葉に置き換えるなら、「批評性」という言葉の方がわかりやすいかもしれない。
山本さんがこの作品で浮き彫りにしたのは、現代社会で皆が目を背けたがる、あるいは見て見ぬ振りをしている「現実」だったのです。
聞こえのいい言葉でホームレスの人々を公共空間から追い出そうとしたり、またそうした人々がまるで存在しないかのように彼らの横を通り過ぎる私たちだったり、山本さんの作品はそうした「現実」のメタファーとして公共空間に出現したのです。
もちろん、アートプロジェクトには、人々を繋ぎ、地域の魅力を引き出す、といった誰もが受け入れられるプラスの側面があることは疑いようのない事実です。
ただそれだけは、代替可能というか、例えば、スポーツや食のイベントなんかでも、同じことができる気がする。

ではアートでしかなし得ないこととは何なのか。
それは「批評性」を持つことだと私は思うのです。
否、やはり「毒の要素」と言った方がしっくりきます。
「毒」を使うことでしか気づかないこと、それこそが私が考えるアートの存在意義だったりするのです。
一般論に照らし合わせたら、ちょっと偏った考えなのかもしれません。
ただこの「毒の要素」が、現在主流のアートプロジェクトの方法論で息詰まった時、その状況を超えていく、何らかのヒントになるのなら嬉しく思います。