COLUMN

静岡県ゆかりの祝祭芸術

加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです

vol.17
おもしろい人に会えたか

オープニングのライブに怪獣音楽が次々と登場して、グランシップは熱気あふれる祝祭芸術の会場となった。

とはいえ、楽しんでいるのは圧倒的に中高年で、子どもたちはいささか物足りなさそうだった。

そもそも、怪獣と静岡のかかわりは、『キングコング対ゴジラ』で熱海がゴジラとキングコングによる世紀の大決闘の地となったことから始まる。
これが1962年のことだ。 静岡は、その後も様々な怪獣映画、特撮映画の舞台となった。
しかし、実に話が古い。『ゴジラ』映画の登場はさらに古く、1954年のことだ。

こうして、高齢者の楽しみで会がスタートしたのは珍しいことだが、もちろんそれだけではない。

会場には子どもが主人公となる展示もあり、何といっても野口竜平(のぐち たっぺい)さんのアート作品「蛸みこし」が秀逸で、親子連れや若い世代も楽しんで熱気にあふれてはいた。

8人で息を合わせて担ぐ、竹でできた≪蛸みこし≫
小さな子どもから大人まで誰もが担ぎ手になれる

実は、これはアーツカウンシルしずおかのアートプロジェクト支援制度「文化芸術による地域振興プログラム」の報告会だ。

冒頭の怪獣ライブの達者な演奏家たちは、本支援制度にも参加する「熱海怪獣映画祭」「熱海未来音楽祭」のメンバーだ。
熱海出身の二人の音楽家、井上誠巻上公一によるトークを挟んで、ヒカシュー、そして姉妹音楽ユニットのチャラン・ポ・ランタン

井上誠は音楽プロデューサーとしても素晴らしい仕事をいくつも手掛けていて、ライブの進行でも豊富な知識の片鱗を語った。

オープニングライブ『ゴジラ伝説2023 in 静岡』
井上誠(左)、巻上公一(前列中央)らによる圧巻のパフォーマンス。中盤には≪蛸みこし≫もステージに登場した

さらに、年を取ってから突然に才能を開花させた「超老芸術」家による作品も展示され、高齢者の表現活動に光が当る一方、小中学生が原稿を書く「子どもたちがつくるローカルマガジン」を発行している伊豆市のKURURAや、「人との違いを認め合い、自然とのつながり、地域とのつながりを大切にしながら生きる土台を育む」静岡あたらしい学校、さらには赤ちゃんをテーマとした浜松の活動(赤ちゃんと人形のお店河田)まで、子どもを主人公とする活動の紹介も多数。

『超老芸術』展覧会
出展作家と来場者が交流する場面も見られた

障害者の表現活動にも、様々な試みが行われてきた。

先駆的な民間の活動に加えて、近年は厚労省やら文化庁でも障害者芸術文化活動普及支援制度を設けている。
障害の有無にかかわらず、芸術として優れた活動かどうかを評価基準とする考え方がある一方で、あくまでも福祉活動の中で位置づける考え方もある。

さらに新たな評価基準を提唱しているのが浜松のクリエイティブサポートレッツである。
レッツではこれまでの評価基準では表現と認められないような、ありのままの行動をも「表現未満、」として認め、表現の幅を限りなく広くとっている。

ワークショップ「マイ『ベッド』タウンをつくろう」
クリエイティブサポートレッツによるアートイベント「オン・ライン・クロスロード2022」(於;松菱百貨店跡地)より

高齢者の表現活動を推進するにあたっては、この「表現未満、」を応用すると、その幅を広げる可能性が広がりそうだ。


かくして、報告会では、障害者の表現活動と子どもの活動と高齢者の活動が多角的に交流する場ともなった。
さらには、商店街と演劇、食文化、災害とアートといった様々な地域課題と芸術文化を結んだ多彩な活動が報告された。

こうした現在の社会的な課題と切り結ぶ芸術活動が交流することで新たな活動展開が生まれ、地域振興の手法も多様化して活性化するに違いない。

文化芸術が地域振興に寄与するかどうかは、その活動の創造性にかかっている。
創造性を計測するのはなかなか難しい。
経済価値を含むけれども、経済価値に還元され切ってしまわない創造性とは何だろうか。

報告会では島田市と川根本町にまたがる大井川鉄道沿線で開催された注目の「無人駅の芸術祭」も報告された。

丸山純子『ひかりとり』
「UNMANNED 無人駅の芸術祭/大井川2023」より

もっとも、アート活動と無人駅が結びついたのはこれが初めてではない。
群馬県での事例だが、アーティストの白川昌生は20年以上も前に「無人駅での行為」(2000年)と題したパフォーマンスを行っている。

無人駅のプラットホームに一人の男が座ってカップ麺を食べていた。
その写真を見ると、魔法瓶が置いてあるので、そのお湯をカップに入れたのだ。

この行為にはどういう社会的な意味があっただろうか。
おそらくほとんど何の意味もないか、いや、あったとしてもその意味をほとんど誰も理解できなかった。

このパフォーマンスによって、しかし、無人駅の抱える様々な課題が浮かび上がってくる。

ほとんど乗降客がいないから駅は無人化するが、それは過疎の課題を象徴している。
このパフォーマンスには「群馬の食」という副題がついていた。
過疎地は食の生産地だろうに、孤独に無人駅で食べているのは工業製品としての食である。
この駅の周辺では米もとれるだろうし、新鮮な野菜も豊富だろうに。

20年も前の一過性のパフォーマンスは当然にも人々の記憶からもほとんど消えてしまったけれども、無人駅という存在がなんとなくざらざらした手触りの違和感を記憶の底に残した。

実に、この違和感こそが創造性の源泉である。

だから、群馬のパフォーマンスが20年たって静岡で「無人駅の芸術祭」となって噴出した。
当然にも静岡の食にかかわる課題が大きく浮かび上がってくるに違いない。
そうだ、茶の存在を忘れかけているのではないか。
いや、忘れてはいないけれども、その価値を効果的に訴える方法がなかなか確立しない。

県下を広く見渡すと、興津の「茶楽」のように茶を味わう場を開く場合もいくつかある。
大井川鉄道沿線では、自らお茶を入れて味わう体験コーナーも備えた「KADODE OOIGAWA」という規模の大きな試みにまで発展している。

無人駅の芸術祭が「KADODE OOIGAWA」を誕生させたわけではない。
しかし、この芸術祭が無人駅の価値、ひいては沿線の価値を人々の心に喚起させる力を発揮した。

アートとは、たちどころにその意味が明らかになる場合もあるが、巡り巡ってようやくおぼろげながら意味らしいものが明らかになる場合もある。

さとうりさ『くぐりこぶち』
「UNMANNED 無人駅の芸術祭/大井川2023」より

アートは人の心を動かす。
だから社会を動かす力を持つのである。


今回の報告会のテーマは「おもしろい人に会いたい‼」であった。

会の最後は、三島の祭りに伴うシャギリの大音響の競り合いだ。
競り合いに「蛸みこし」までが乗り込んできた。
競り合いの行事席はすっかり「蛸みこし」に占領され、みこしの傍らから顔を出して軍配をふるう羽目に陥った。

こうした交流によっておもしろい人に出会い、自分たちでもアートプロジェクトを始める人が生まれるだろう。

そうして地域社会に創造的提案をすることで、地域振興のうねりとなっていくことを願っている。

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