加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
見ているだけで凍える水垢離
正月の4日、あたりが暗くなると、小学校高学年の少年たち6人がやってきて、堂内を練り歩く。
ここは、浜松市は引佐町川名の福満寺薬師堂である。
石段の上に建つこのお堂の左手には伊豆神社が並び、両者は本来一体のものだったはず。
神社と寺が分離された今でも、「川名のひょんどり」と呼ばれるこの日の祭事は、薬師堂が主たる舞台だが、寄進などの受付は伊豆神社で行われる。
神仏習合が本来の姿なのだ。
さて、「若者練り」に続いて、長老に先導されて、少年たちはステテコ姿でお堂から出てくるが、先導の長老の足元が危うく、提灯の火が消え再点火して、やっと段を降りられる。
長老と違って元気に下りてきた少年たちは、水垢離をするために川名川まで歩く。
お堂の下の広場には焚火もあり、甘酒などもふるまわれるが、200メートルとはいえ、いやはや、見ているだけでも寒い。
それでもよく考えられていることには、少年たちの周囲を法被姿の年長の若者十名ほどが囲み、掛け声をかけて押し競まんじゅうのようにして回りながら歩くのである。
こうした細やかな工夫の積み重ねが、祭祀の伝承を成り立たせている。
川名川の空には、三日月と宵の明星が大きく見える。
そうして少年たちは川で水垢離をするが、水を掛け合ったりしていて、やはり見ているだけで凍えそうである。
再び、押し競まんじゅうでお堂まで戻ってくる。 この間45分位か。
少年たちは堂内で再び練りをしていると、頃合いを見て松明をもった八巻白装束に赤い襷掛け紋付の人が数名を従えて現れて、今度は火との攻防になる。

松明を振り回し中に押し入ろうとするのを、少年たちが阻止し、その勇壮な攻防が15分ほど続く。
ついに松明は道内に運び入れられるが、若者がこれを踏みつけたたき消して一段落。

巫女舞こそ民俗芸能伝承の秘訣
祭祀はまだ続いているのだが、ここで巫女舞にふれておこう。
「川名のひょんどり」では、水垢離の後の火の攻防に続いて、やがてお堂では次々と神楽が舞われる。
これは主として大人たちの仕事だが、その中に、着飾った少女二人による舞も含まれている。
この巫女舞は元はなかったものだろう。女の子も参加したい、という希望を入れていつか加わった舞に違いない。
川名だけではなく、じつは前日の1月3日には同じ引佐地域ではあるが、さらに山間部の「寺野のひょんどり」も拝見したが、ここでも三人の巫女舞が披露された。お囃子にも女子が参加している。
この傾向は、実に全国各地に広がっていて、たとえば、宮崎県の椎葉村の神楽でも、男の子も女の子も、子どもが中心に踊る番組が組まれていた。
また、岩手県洋野町の「瀧澤鶏舞(たきさわけいまい)」や、同じく岩手県岩泉町の「救沢念仏剣舞(すくいざわねんぶつけんばい)」は、いずれも刀を振り回す勇壮な舞だが、舞手の圧倒的多数は女性によって占められていた。
中学生や小学校も高学年の女子の舞を、年少の少女たちが食い入るように見ている場面は、全国各地で見られることで、巫女舞に端を発した女性参画こそが、郷土芸能の継承に不可欠のようにみえる。
焼畑農耕文化の利点
同じ中山間地域でも、川名にはいくらか水田もあり、神楽舞の中には、大きな注連縄を左肩に担う「片稲叢の舞」と、同じく注連縄を両肩に担う「両稲叢の舞」があり、稲作が生業の中に明確に組み込まれていることがわかる。
寺野の方は、水田らしきものは全く見られず、集落も山の斜面に張り付くように形成されており、この日の見物客のために確保された駐車場も、斜面にジグザグに走る道路の傍らにかろうじて駐車できるスペースを区画したもので、おなじく「ひょんどり」の集落とはいえ、明らかに生業が違って見える。
平成5年に引佐町が発行した資料によると、寺野は「山岳斜面に展開する44軒からなる山地集落で焼畑を含む畑作農耕と林業を生業として古くは紙漉き、降っては養蚕を余業としてきたが、現今は茶樹栽培が基幹産業をなしている」という。
さらに宝暦四年の文書によるとして引用されたものには「畑作の作物は初年は粟、二年目稗、三年目芋、四年目大豆、五年目小豆、六年目荏胡麻」の「複雑な輪作形態をとっており、かつては焼畑農耕文化の濃厚な地域であった」という。
さらに、イノシシの害獣対策として狩猟も行われたという。
米作こそが農業の根幹であるとする、いわば米本位制のもと、焼畑を経験したことのない我々には理解しにくいことながら、焼畑は列島中のどこででも見られたことで、実は焼畑農耕文化こそが普遍的な生業の在り方だったのだ。
寺野の神楽舞には、川名のように稲作を示すものはなく、「粟穂の舞」があることから、宝暦4年文書に示されている通り、焼畑農耕の重要な作物である粟の作付けがあったことが伺える。
焼畑農耕の最大の利点は、いくつかの焼畑を同時に経営していると、輪作により常に複数の穀類を栽培していることになり、どれかが不作でも、別の作物が取れるので、飢饉を免れることにある。
これが、米単一のモノカルチャーと違う、マルチカルチャーとしての焼畑農耕の最大の利点である。
利点はさらにあり、15年ほど山林として再生させた山の小灌木を切り、焼き払った後に残る樹木の灰が肥料となるので、施肥が不要で、また、焼き払うことで雑草病害虫も死滅するので、その点でも安全性が高い。
米作に比べて実は労働生産性も高い。
かくして、高度経済成長期に、化学肥料、農薬、機械化の経済コストを強いられた米作中心の農業に比べて、いずれも必要としない焼畑農耕は、なかなかの優れものであった。
経済コストをかけなければならないモノカルチャーよりも、マルチカルチャーが、小さなコストで経済リスクを回避できる例である。
農業も文化も共通して多様性が重要なのだ。
そうした文化の名残を「寺野のひょんどり」は現代に伝えている。
多種多様な神事や舞の集まった「ひょんどり」
ところで、「ひょんどり」とは何か。
五穀豊穣などを祈念して寺院で行われる正月行事である修正会の一種で、遠州では、これを「おくない」と総称しているが、寺野と川名のものは、松明を振りかざす火踊から「ひょんどり」と呼ばれてきた。
「遠江のひょんどりとおくない」は、ここで紹介した寺野、川名と、さらには「懐山のおくない」をはじめ、「滝沢のおくない」、「神沢のおくない」などが知られている。
まず、1月3日の「寺野のひょんどり」の様子を紹介しよう。
静岡県文化財課の溝口氏のご案内で、静岡駅から車でたっぷり2時間半かけて旧引佐町寺野地区に到着。
海抜300メートル前後の山の斜面にしがみつくようにして人家が点在している。

杉木立に囲まれた寺野三日堂は、四間四方。
「直笛山」の扁額が掲げられており、直笛山宝蔵寺観音堂というらしい。
堂の前に少し広場となった平地があり、ここに仮囲いをして受付と屋台を設え、広場には50席くらいあるかイスも並べられて、最前列は「子供優先席」とある。
現地でまず目に飛び込んでくるのは、屋台の前、座席の後ろに設営された焚火で、いい天気にもかかわらず午後二時にしてすでに冷えこみ、焚火がまことにありがたい。
祭事に先立って、関係者が禊をするのだが、ここは、川名と違って、井戸の水を手に受けて清める。
お堂に向かって右手の石段の上に小さな祠があり、その前に数名が座し、脇に火を焚いて、神事が始まる。
これは、地主神と伝えられる「ガランさま」を祭るものだという。
石段の下に二本の真っすぐに伸びた杉が門柱のように立っていて、注連縄がかけ渡してある。
初めにある唱え事は、「神降ろしの詞章の唱和」だという。
笛と鉦、太鼓の音とともに、鈴と扇子を持って舞が始まる。「順の舞」である。
ところが驚くことに、二人目の舞「万歳楽」が始まったころ、お堂の方でも同時に、松明を手にした数名が時計周りに堂内を巡るのである。
これが、まさに「ひょんどり」であり、番組表示には「伽藍祭」とある。
祠の前では、三人の少女による巫女舞がはじまるが、お堂の方では松明の堂めぐりが続いている。
やがて堂の方から「火を持ってこい」と祠の方に声がかかる。
「火が遅い」などとも叫んでいる。総じて長老陣の仕事はもたつく場合が少なくない。
松明がお堂に到着すると、その松明をいきなりお堂の長押に打ち付ける。
激しく火花が散る。
これを合図に、お堂の内陣と外陣の境の戸が外され、祭り(おこない)が始まったことになるらしい。

松明とともに祠の前からはすべてを撤収し、後は本堂で祭事が進行する。
巫女舞から、禰宜、楽頭による「萬歳楽」、少年による「三ッ舞」、「片剣の舞並びにもどき」、「両剣の舞並びにもどき」と続いたところで、市長の挨拶、地区会長の挨拶がある。
祭礼はさらに続き、「火能の舞並びにもどき」、「矛の舞」、「粟穂の舞」、「杵の舞」、「女郎の舞並びに道化」、「翁並びにもどき」と、まじめな舞から滑稽な舞まで多様な舞が続く。
圧巻は、三匹の鬼が登場する勇壮な「鬼の舞並びに招き」。
松明の火を鬼がたたいて消すのだが、動きがみごとで、あたりに火の粉が飛び散って、日が暮れるにつれ陰陽の変化が美しい。

そして招きに応じて獅子が登場して、鎮めの舞である「ねこざね」で完了する。
陽が落ちると一気に寒さが増してきて、体の芯まで冷える。
翌1月4日に開催されるのが、冒頭で水垢離の様子を紹介した「川名のひょんどり」である。
川名川に向かって南面する緩やかな斜面に集落は展開している。山間の集落ではあるが、昨日の寺野よりは少しだけ平地がある。
会場は右手の石段の上に福満寺薬師堂、その左手に伊豆神社が並び、薬師堂には提灯がいくつか掛けられて準備が整っている。
受け付けは伊豆神社の方でされて、寄進するといたく感激され資料などをいただく。
幟は奉献瑠璃山薬師如来とあり、昭和五十七年のもの。
ここも社の前に焚火をして、屋台も出て五平餅、蕎麦などを振舞う。
甘酒をいただく。


掲げられた「ひょんどり式次第」によると、すでに十四時には六所神社で「シシウチ神事」が行われたらしい。
そうして、十八時に「若者練り・水垢離」がはじまるとあるが、その様子は冒頭に紹介したとおりである。

この後屋台で蕎麦をいただいている間に、お堂では歌詠に続いて「禰宜の舞」がはじまっている。
次いで若連の舞が順に進行し、途中には巫女舞もある。
説明書きによると、「はらみの舞」の最中に、「小禰宜の者は静かに立ち上がってオブッコ宿に行き、一室に籠ってオブッコ作りを無言のうちに行う。
秘事となっていて小禰宜以外の者は知ることが出来ない」という。
すなわち、「川名のひょんどり」と総称されている一連の祭事の中には、当事者だけで行われる神事や、当事者以外知ることのできない秘事やらが含まれているのだ。
「片剣の舞」に続く「片稲叢の舞」と「両剣の舞」に続く「両稲叢の舞」は、ぞれぞれに大きな注連縄を左肩、そして両肩に掛けて舞う。
これに続けて獅子が舞う。
獅子舞の後は、渓雲寺住職と大禰宜が堂外に出て三十二本の御幣を円陣に立てる。円陣の中で火を焚き読経をして式が終わる。
これが伽藍鎮めである。
伽藍鎮めの後は役の者が堂に帰り田遊びをする。
再び説明書きによると、「田遊びが終わるころ、オブッコ宿の当主が口に香芝の葉をくわえて薬師堂に参詣に来る」。
白装束のオブッコはお堂の隅で、他の参会者には背を向けて薬師如来を拝し、なにやら唱え事をしている。

最後の最後に汁掛け飯が振舞われ、神と共食して祭礼が終わったのが10時ごろ。
寺野では広場に椅子が並べられていたが、川名の場合は、狭いお堂の中で行われる舞を見続けるには、壁に背をつけて立ち続けているしかない。
それでも、いろいろの振る舞いがあり、舞を見続けて、御幣をいただき、最後に神と共食までさせていただき、この体験の全体こそが郷土芸能の価値である。
まことにありがたくも稀有な体験であった。
歌舞音曲こそ総合芸術の花
「川名のひょんどり」は、森町文化会館での「ふじのくに民俗芸能フェスティバル」でも紹介された(2025年12月)。
明るいステージ上の「両稲叢の舞」を客席から眺めるだけでは、立錐の余地がないような、あの暗いお堂の中での雰囲気は全く伝わらないかもしれない。
そもそも、郷土芸能の多くは見物客を想定していない。
たしかに、寺野でも川名でもそれぞれに何十人かの見物客はあるが、そのほとんどはそれぞれの村の出身者か、親類縁者であって、全くのよそ者は、私を含めて、ほんのわずかだったに違いない。
それは、こうした祭祀は、神仏に祈願するのが目的であって、神仏に見ていただく、つまり、祭祀の本来の見物人は神仏であって、つくり手である集落の人々が、この祭祀を楽しんだのは、まさに神仏の余慶としてであった。
郷土芸能の重要性は、専門家の創造と非専門家の鑑賞とが画然と分離している近現代の芸術文化と全く違って、祭りのつくり手は同時に祭りを楽しむという、創造と鑑賞が未分化なところにある。
それでも、芸術文化を専門としない多くの人々にとって、ただ鑑賞するしか方法はないと思い込んでいたのが、こうした郷土芸能に接することで、新たな可能性を発見する。
だからこそ、わずかの見物人であっても、祭祀の場に足を運ぶことが重要で、また、それすらもかなわぬ多くの都市住民にとっては、時に、文化会館のような文化施設であっても、できるだけ頻々と紹介されることが貴重なのだ。
地域社会の人々が、みなつくり手でもあり受け手にもなる郷土芸能の文化創造の形態は、実に、地域に根ざしたアートプロジェクトにも通じる。
だれもが表現にかかわりうる、あるいはだれもが表現者になりうる、そうした社会をめざそうと、アーツカウンシルしずおかは提唱している。
その実現の手法として、アーツカウンシルしずおかはアートプロジェクトを応援しているのである。
郷土芸能は、その手法を開発するためにヒントに満ちているといえるのではないだろうか。
さらに、郷土芸能には総合芸術としての重要な特色がある。
「ひょんどりに」は、いくつもの舞があり、当然にも、鉦や太鼓笛などのお囃子が入る。いろいろと唱え事も交じる。
規模は小さくとも、歌舞伎やオペラなどの総合芸術の様相を呈しているのだ。
つまり、歌舞囃子などが混然一体となって演じられる。
歌舞音曲という言葉があるが、まさに郷土芸能は歌舞音曲の世界である。
音を伴う古今東西のあらゆる芸能活動では、実は、西洋音楽の代表選手のように提唱されているオーケストラなどの純粋器楽音楽は、例外中の例外的存在である。
ほとんどの音楽は、歌や踊を伴うのが通例である。にもかかわらず、音楽普及を使命とする多くの文化施設は、どうして、この例外的な純粋器楽曲に特化したがるのだろうか。
総合芸術としての歌舞音曲、あるいはアートプロジェクトとしての郷土芸能を、私たちはもっと高く評価して、応援していく必要があるのではないだろうか。