加藤種男アーツカウンシル長による連載コラムです
静岡県ゆかりの祝祭芸術
SPAC(静岡県舞台芸術センター)の演じる芝居は人形浄瑠璃に似て、出演者一人一人がセリフを語る人と実際に舞台上で動く人とに分かれた不思議な進行をする。
たとえば、海外でも評価が高かった『アンティゴネ』の主役を演じるのは美加理だが、そのセリフは別の出演者である本多麻紀が担当する。
三人がかりで一体の人形を動かす浄瑠璃が非効率だとすれば、これも相当非効率だろう。
浄瑠璃では語り手である義太夫語りの大夫が一人ですべてのセリフを担当するが、六人の登場人物に「語り手」と「動き手」が配されているので、この点では浄瑠璃以上に非効率ともいえようか。
なぜこんな面倒なことをするのだろうか。
もちろんここには芸術の価値を効率で計ろうとする原理とは別の芸術観がある。
それは、近現代の芸術が個人の思いから出発し、個人の思いを表現するものという「近代的自我成立」によって打ち立てられた芸術観以前のものでもあるだろう。
近代的自我成立以降の芸術とは、演劇に即してみれば、戯曲をだれが書いたか、演出家はだれか、演じる役者の主だったものはだれとだれかが重要で、それぞれの人の技術的習熟度、考え方、総じて個性が何よりも重視され、またものをいう。
しかし、「近代的自我成立以前の戯曲」におけるセリフは、「とある一人の中にしかない言葉ではなく、ある発言が、実は同じように考えた」「集団の声」だと、宮城聰自身が『アンティゴネ』の演出ノートに書いている。
芸術は個人の表現である以上に、いわば共同体の表現であって、そのことの意味を追求するのが宮城聰の試みようとしていることだといえようか。
我々凡庸なる民はしかし、近代的自我でがんじがらめになって、その挙句に自己の中に見出したものは、独創的な個性とは程遠く、いたって平凡な人生である。
だから今日一般に受け入れられやすいのは、平凡な日々の営みの延長にある演劇である。
それを宮城は押し戻して、愛と鎮魂という凡庸に見えるテーマを掲げながら、現代社会の意味を演劇によって明らかにしようとする。
考えてみれば取り上げている作品は、二千五百年ほども前のソポクレスによるギリシア悲劇である。
つまりは今日の日常と全く切り離れた世界を描く。
日常の延長ではない世界を示すために、こうした厄介な仕掛けを持ち込んでいるのかもしれない。
さらに、宮城のドラマトゥルギーでは、これを「鎮魂の祝祭」として上演するといっている。
悲劇の効用は、アリストテレスも語ってはいたが、けれどもやはり、悲劇を以て鎮魂とするには、相当の詐術がいる。
現世の権力機構を中心とした社会が、生者はもちろん死者さえも、善悪の基準で、あるいは、貨幣経済社会の効率という基準で、天国へ行くものと地獄に落ちるものとを区分しようとするとき、盆踊りや精霊流しという手法によって、すべての死者を区別なく仏として極楽往生させようという、思いがけない郷土芸能という共同体的手法を登場させて、その詐術を生み出そうとする。
これによって悲劇が「鎮魂の祝祭」になる。
もっともここには、共同体の祝祭芸術の手法を、近代的自我以降の個性的な演出家を含めた演劇人が扱うという矛盾がある。
もはや共同体などどこにも存在しない。
だからこそ、演劇を通して古い共同体に代わる新しいコミュニティを創造しようとしているのかもしれない。
ところでSPACは劇場と劇団が一体化している。
これは世界的な状況から見れば当然のことだが、なぜか日本では、特に公立文化施設が、創造団体を付属させて一体化しているところは極めて珍しい。
これは静岡県の文化政策の先見性を示している。
SPACは例外的ながらハードとソフトが一体化しているので創造活動に実が上がる。
この一体化の基盤が全国的に広がれば、舞台芸術は大きく飛躍するだろう。
どういう芸術を好むかは百人いれば百通りの違った意見があるかもしれない。
したがって、『アンティゴネ』に登場する個性ある人生を送った死者に深く思いをはせる観客が、SPAC流の共同体的手法に違和感を抱き、現代の課題と向き合うのにSPAC流ではない手法を期待するかもしれない。
もちろん別の演出がありうるだろう。
正解はおそらく百通りある。
その多様性が祝祭芸術の命である。
そのためにも、静岡におけるSPACの活動が貴重なのである。