COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.85

誰もが「正解」にがっかりした日

(チーフプログラム・ディレクター 櫛野展正)

2025年度、HAHAHANO.LABOが仕掛けた最大の「事件」は、実は何も起きなかったことにこそあるのかもしれない。

事の始まりは、代表・二宮奈緒子さんの息子であり、メンバーのひとりでもあるKANくんが放った一言だった。

「家族に内緒で、9万円のエッフェル塔のレゴブロックを買っちゃった」。

photo:近藤ゆきえ

1ヶ月分の給料が丸ごと消える、あまりにも無謀で、あまりにも純粋な衝動。

僕たちはこのやってしまいそうな大失敗に、社会を揺さぶるようなエネルギーを感じ、当初はこれをイベントの副題に据えようと盛り上がっていた。

しかし、結局のところ、KANくんは購入をキャンセルしてしまった。

実は、誰もが、彼がその「禁断のボタン」を押し、取り返しのつかない熱狂に身を投じる瞬間を今か今かと待ち構えていたのだ。

だが、土壇場での彼の判断はあまりに賢明だった。

周囲からの反対を受け、自分の給料袋を守るという、あまりに堅実な一歩を選んでしまったのである。

11月のイベントタイトルは、最終的に副題のない『ウチクビだけど元本保証』という、どこか不穏で、それでいて確信犯的なものに決まった。

社会的に見れば、彼のキャンセルは100点満点といえる正しい判断だ。

自律したひとりの大人としての誠実な選択である。

だが、その報告を聞いたHAHAHANO.LABOのメンバーや大人たちの反応は、あまりにも身勝手なものだった。

「えー!買ったほうが面白かったのに!」「そこは買わなきゃダメだよ!」。

ひとりの若者が破滅的な浪費を免れたというのに、あちこちから溜息が漏れ、誰もが本気で、そして不思議なほど幸せそうに落胆した。

なぜ僕たちは、彼の失敗に見える熱狂をこれほどまでに期待したのか。

そこにこそ、HAHAHANO.LABOが2025年度を通じて追い求めてきた「仕事」と「才能」の新しい形が隠されている。


レゴの購入をキャンセルすることで周囲を(勝手に)がっかりさせたKANくんだったが、イベント当日の会場では、全く別の形で来場者を圧倒していた。

それが、彼による「手の甲占い」だ。

photo:近藤ゆきえ

通常、占いといえば手相を見る「手のひら」が一般的だが、KANくんが見つめるのは「手の甲」である。

相談者の手の甲にそっと触れ、その質感や形から、その人の本質や隠れた個性を読み解いていく——という体裁を一応はとっている。

本人曰く、「開始前は人気がないのではと不安を感じていた」というこの占いだが、蓋を開けてみれば12名もの人々が列をなし、特にお悩み相談としての「恋愛運」に注目が集まった。

20数年ぶりに再会した幼少期の先生を前に、照れくささからか占えなかったという微笑ましい心残りも、この場が単なるサービス提供ではなく生きた再会の場であったことを物語っている。

photo:近藤ゆきえ

一見すると風変わりな、あるいは冗談のようにも思えるこの試みだが、そこには彼が日常的に磨き上げてきた、非言語情報をキャッチする鋭敏な感覚が投影されている。

会場を訪れた人々が、自分の手の甲という意外な場所から導き出される言葉に驚き、なぜか納得してしまう。

来場者の中には、「私も困るとKANくんのように笑って誤魔化せば良いという手法を習得できた」と、彼の軽やかな生き方に救いを見出す人まで現れた。

さらに、普段はグッズを通じてしか見ることのできない「KANくんの文字」が、直筆メッセージとして最後に添えられる。

その一筆に、多くの人が価値を見出していた。

9万円のレゴへの衝動を冷徹にキャンセルした彼の「理性」と、手の甲からその人の宇宙を読み解き、筆を走らせる「遊び心」。

そのギャップこそが、KANくんというひとりの人間が持つ、底知れない魅力の正体だった。


僕たちが彼に期待し、その占いに惹きつけられたのは、そこに共通する「合理性の欠如」に魅了されたからだろう。

現代社会は、効率と正論に埋め尽くされている。

何を買うにもコスパを考え、常に「損をしない正しい選択」を迫られる。

そんな息苦しい世界の中で、誰かが自分の衝動に従って無謀な買い物をしようとしたり、手の甲に人格を見出したりする姿は、ある種の解放のように映る。

「そんな無茶をしても、笑って生きていける場所がある。むしろそれを仕事と呼べる仕組みがある」。

その実感を分かち合うことが、HAHAHANO.LABOの掲げるパラレルキャリアの根底にある。

会場となった静鉄のコワーキングスペース/シェアオフィス「=ODEN」では、他にも多様な熱狂が噴出していた。

photo:近藤ゆきえ

HAHAHANO.LABOの藁科公平くんは、段ボールを切り貼りして作り上げた精巧な仮面ライダーの武器を披露し、訪れた年配客の少年時代の記憶を呼び起こした。

また、HAHAHANO.LABOのお目付け役である佐野桐子さんは、静岡鉄道の社員に師事し、キレのあるダンスを共にステージで披露した。

そこには「支援する側」と「される側」という境界は存在しない。

静岡鉄道の社員たちもまた、自慢の毛玉がついた服を展示したり、ZOOMのアバターで猫になりきり相談に乗ったりと、自らの偏愛をさらけ出した。

photo:近藤ゆきえ

「欠けている部分があるからこそ、何かに優れている」。

6月の定例会でメンバーのKANくんが語った言葉は、障害当事者だけでなく、役割を演じ続ける現代の全ての大人たちに向けられた救いでもあったはずだ。

タイトルになった『元本保証』というシステム——入場料を払い、交流することで返金される仕組み——によって、来場者は単なる観客から、才能を共創する参加者へと変わった。

結果として、ある程度の寄付金が集まったことは、彼らのサービスが市場において確かに価値を持ったことの証左である。

KANくんがレゴの購入をキャンセルしたという正しい決断に対して、僕たちが抱いた落胆。

それは、彼が正解を選ばなくても生きていける強さを、僕たちがもっともっと信じたかったからかもしれない。

photo:近藤ゆきえ

HAHAHANO.LABOは今年度、ひとつの確信を得た。

どんなに冗談のように見える特技であっても、そこに圧倒的な熱量と、それを届けるための適切な翻訳があれば、それは必ず誰かの心を動かす仕事になるということだ。

「自分の好きなものを好きと言える力」。

このシンプルで、しかし今の社会で最も失われかけている力を武器に、これからも歩みを進める。

たとえ9万円のレゴを勇気を持ってキャンセルしたとしても、その物語すらも笑い合えるこの場所から、新しい働き方の地図を描き続ける姿を支えていきたい。

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