CULTURAL RESOURCE DATABASE

ふじのくに
文化資源データベース

菩提寺

慶長5~14年(1601~09)に浜松藩主であった松平忠頼と異父兄の家広の墓が、中区三組町の菩提寺にある。松平家の庶流で、現安城市桜井を領していたことから、桜井松平家と称されている。松平宗家とは敵対関係にあり、忠正の代に、今川義元の死後、三河一向一揆を契機に、吉良氏などと結んで、宗家転覆を企てるが、敗北する。その後は宗家に従い、家広は天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで酒井忠次の軍勢に加わり、功績を挙げた。天正18年(1590)に豊臣秀吉により家康が関東に移封されるに伴い、武蔵国松山藩主となるが、慶長6年(1601)に25歳の若さで死去する。家康の勘気にふれての自害とも伝わる。家広の後、家督を継いだのは、異父弟の忠頼である。忠頼は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、岡崎城の守備が任されている。家督を継き、松山藩主となるが、慶長12年(1607)12月には、五万石に加増され浜松藩に移封となる。慶長14年(1609)に従弟水野忠胤が催した江戸屋敷で開かれた茶会で、争論に巻き込まれ、刺殺された。享年28歳であり、これにより末期養子による家督相続は認められず、桜井松平家は改易された。菩提寺にある家広・忠頼の石塔は、ほぼ同形同大の五輪塔で、二基が並立している(戦後、新造)。右が家広で「西照院殿」、左が忠頼で「圓痛院殿」の法名が刻まれている。
はままつ石塔めぐりより

所在地 浜松市中区三組町183
問い合わせ先 053-453-0476
ページの先頭へ