COLUMN

いっぷく

文化やアートをめぐるさまざまなこと。
アーツカウンシルしずおかの目線で切り取って、お届けします。

vol.91

熱海の未来と文化と温度

(プログラム・ディレクター 北本麻理)

今年7回目を迎えた熱海未来音楽祭(2025年11月29日(土)、30日(日)実施)に参加し、熱海で考えたこと感じたことをまとめておく。

熱海と音楽祭について考えると、どうしても自身の過去の苦い経験が思い出される。約30年程前、音楽祭を主宰する巻上さんのWSを受けたことがある。受けた理由は、「ボイスパフォーマンス」って面白そうと単純に考えた程度で、将来パフォーマーになりたいとか、技術を身につけたいとか、何も考えていなかった。

そんな安易さが良くなかったのか、WSの冒頭に出された指示に何も対応できなかった自分自身の思い出が、トラウマとして残っている。

「体全体は怒って、笑いながら話して」

そんな指示だったと記憶する。

頭の中では「できている」のに、実際にやってみると「まったくできない」。

理想と現実のギャップに打ち負かされた。その後、ホーメィの練習もして、いきなり倍音を出せないことには納得することができたのだが、先のギャップはトラウマとなったままで、「頭ではできていても、身体は思い通りにならない」ことが重要な観点のひとつとして今も活かされている。

このWSを受ける数年前、少し衝撃的な経験をしている。

森や川、畑の中で各種アートプログラムを複数実践する、「アートキャンプ白州」というアートプロジェクトに初めて参加した。衝撃だったのは、畑の側道で子どもたちが「ウェ〜 ヴェ〜」と謎の発声をしながら歩く姿に、何度も遭遇したこと。「なぜ子どもたちは楽しそうに、奇妙な声をあげているのか」とただただ不思議だった。実は、子どもたちは前年にホーメィを見て、聴いて、1年後にまたその感動を、自らの身体を通して再現していたらしい。

トラウマとなっているWSも、このアートプロジェクトのひとつである。

「LAND FES」ではペルー民族舞踊が路上で披露された

さて、現在の熱海ではどうか。

熱海の港・海岸「サンビーチ」の砂浜に、突如『ドア』が出現する時期がある。その『ドア』はなぜそこにあるのかわからないにもかかわらず、観光客が列をなして撮影している。プリンに満足した後に、謎を楽しむ余白が用意されている。この『ドア』の体験は、スマホに保存されたプリンの写真よりも、熱海に再び戻るきっかけになるのではないだろうか。『ドア』は、「熱海未来音楽祭」が実施される期間だけ現れる。

仲見世商店街、熱海銀座を中心に、「レトロ」な建物の中や、ストリートで、ダンスや音楽が突如現れる。振付や旋律があやふやな、言い表しづらいパフォーマンスである。あやふやなものを、熱海の方々は温かく受け入れてくれていると、巻上さんは何度も言及している。

「熱海未来音楽祭」は1日中プログラムが実施されるので、隙間を狙って喫茶店で休憩を取る。レトロな喫茶店だ。一番早くできるメニューをお願いしてふと店内を見渡すと、お年を召した店員さんが多めにいらっしゃり、レトロさと親近感を演出している。家族経営かもしれない。急いで作ってもらったサンドウィッチをアイスコーヒーで流し込み、次の会場に向かう道で、ふと「レトロってなんだ」と考えた。

コーヒーを淹れ、パンを切り具を挟み皿に乗せ運ぶ、を何年も繰り返して来た人たちの所作を、人生を、頭でできていても、身体は思い通りにできない。「レトロ」では測れない「重み」が、街に潜んでいるのではないか。

週末の熱海は賑やかで人で溢れている。温泉、プリン、レトロ、花火を楽しみ、しばしの休息を楽しみ、寛ぐ。温泉、プリン、レトロ、花火を提供する熱海の人たちは、どのように休息を楽しみ、寛ぐのか、実は良く知らない。けれども、まちの人たちの日常を知ることで、熱海の個性を探りだしたい。

アートの売り文句として、「非日常」が掲げられることがある。いつもとは異なる経験、普段触れることのない感性が引き出されることが「日常では非ず」となるのだろう。実はこの「非日常“感”」が、熱海の「重み」を見逃しているように思わせる。

「熱海未来音楽祭」には多くの音楽家、ダンサーが出演する。演奏のスタイルは“インプロヴィゼーション”で、日本語としては“即興”と訳される。この“即興”という語句の印象と「非日常“感”」が結びつき、そのうえ未来と冠していることで、“その場限り”だと捉えられているのではないだろうかと考えることがある。


見聞きしたことを通して、“その場限り”ではないことの理由を考えてみたい。

「巻上公一の声の冒険ワークショップ」の様子

まず、7回目の音楽祭に参加して収穫だったのは、「レトロから見た未来(つまり現在)」との巻上さんの言葉である。これは、先にあげた「重み」にも通じるところで、いま私たちが出会うことのできる人々の日常の蓄積…喫茶店で珈琲を入れ続けてきたこと、あやふやなものを受け入れてきたことなどへの応答として、音楽やダンスが生まれている。珈琲を入れる動作を振付にするということや、感謝を表した旋律ということではない。音楽家やダンサー自身の蓄積が、熱海の蓄積に触れることで呼び出され交りあう、そんな状態である。蓄積と蓄積が、音となり身体表現となり、また次の蓄積へと積み重ねられる。

蓄積というのは、熱海で培われてきた文化と、文化に呼応する表現である。熱海が魅力的なのは、呼応する表現が複数出現してきたことにある。熱海の作家やスペースを紹介している「ATAMI ART EXPO」、<熱海を怪獣の聖地に>をキャッチフレーズに活動する「熱海怪獣映画祭」、現代美術作家・企業家として熱海内外から頼られる存在となっている「戸井田雄さん」、街と現代アートを接続させる「ATAMI ART GRANT」などが、独自の解釈と手法で熱海の文化を発信している。

文化の重みは通奏低音として、これらのアートプロジェクトや人が奏でる多彩な音と重なりあい、独創的な、斬新なハーモニーとして、熱海のあり方や佇まいを披露しているのだと思う。この披露の仕方は、その場限りではない蓄積があるからこそ実現できる方法だろう。

レトロな喫茶店で感じた温かさと、「熱海未来音楽祭」をはじめとしたアートプロジェクトで感じる温かさ。熱海でしか体験できない温度が、これからの熱海を作る要素となっていくだろう。

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